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磨製石器: 時空がつながる

実家の近所には、ざくざく土器や石器が出てくる畑があった。長じて知ったことには、そのあたりは古墳時代の集落があったため、畑を普通に耕しているだけでいろいろ出てくるのだ。土器も石器も畑のあちこちに積み上げられていたし、子どもの手で少しそのへんを掘っても何かしら手に入るのだった。

そうした土器や石器に触れていると、ときおり強烈な感覚が全身を震わせた。突然、その道具を手にしていた人の体温や鼓動が伝わってくるような気がするのだ。

もちろん、古墳時代なんて今から1500年ぐらい昔だ。持ち主の体温が伝わってくるなんて錯覚とか妄想のたぐいでしかないのだが、ともかく私はその感覚のとりこになった。

土器に残された縄目や指の跡。しっくりと手になじむ、なめらかな円錐形の磨製石器は、料理のときに芋なんかを突き崩すのに使ったのだろうか。

風に乗って、古墳時代の人々の煮炊きの音やおしゃべりの声、体臭がこちらに吹き寄せられてくる気がする。ここは1990年代の、どこにでもある畑だというのに。

時空の壁がパーンと取り去られて「彼ら」とじかにつながってしまうような経験は、あれから何度もした。

20代前半、東京タワーのすぐ横にある浄土宗の総本山・増上寺の勤行を聴いていたとき。お堂にお香の煙とお経の声が充満し、わんわんと空間をこだます中で、私は古今東西の無数の人々の感情の震えに全身が共鳴したようになって、思わず嗚咽した。

30になった頃、なんとなく通うようになっていたプロテスタント教会の集まりで聖書の詩篇を代わる代わるに音読していたとき。2000年以上前の人たちが、振り向いてくれない神に恨み言を連ね、泣き、叫び、懇願し、またそれでいて神を讃える文言に、やはり私は嗚咽した。たとえば皮の服をまとったその人が乾いた地面に膝をついていて、そのすすり泣きの激しい呼吸、鼓動と胸の痛み、膝に刺さるたくさんの小石の尖り具合がじかに私の身体の中に入ってくる気がしたのだ。

私はじっさいにはひとりではないし、魂は消えないのだと感じて…… きっとそれは錯覚なのだが…… 私は救われ、それで、非常に宗教的な人間になった。

私は30年近く前、考古学や人類学の研究者を夢見る少女だった。いま私は、常に神や人との形のないつながりを切に求める、いち信仰者だ。ときに斜に構えることはあるし、一般的にイメージされる「熱心な宗教の信徒」の像には当てはまらないが、私は自分を極端に宗教的な人間だと感じる。

宗教のはじまり、みたいなことを考えるときに、あの畑で握った磨製石器の感触をいつも思い出す。

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