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私たちには祈ることしかできない、けれど祈ることだけは許されている

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もう最悪だ。

世界中で未知の感染症が流行って、老若男女問わず平等にバタバタ死んでいっている。人々の間には分断と差別、物資の奪い合いが横行し、施政者は打ち出す政策ごとに私たちを的確に絶望させにかかる。

私は慎重に生活上のあらゆることを調整していて、幸いにもぼちぼち眠れる状態を保っているが、悪夢を見る回数が格段に増えた。今朝なんか、五つぐらいの一大スペクタクルの悪夢を見て、ぐったりして起きた。そして、悪夢から目覚めたら目覚めたで、今度は悪夢のように不条理に満ちた現実が待っているのだ。まるで、私が非常にストレスフルな実家の環境にいたころのような感じの朝。

この悪夢の連発に業を煮やして、こんなnoteを書いたり

トラウマ治療系のイメージワークをして対処しようとしたりしているうちに、私は自分が自然と、祈りや宗教的儀式のようなことをして癒やされていることに気づいた。

同時に、自分が「この難局を乗り切るためのハウツー」みたいな記事をいくら量産してもぜんぜん癒やされていないことにも気づいた。

じゃあもう、自分の内的世界に遁走して、祈ったり儀式したりする以外にどうしようもないじゃん。人は笑うかもしれないけど、もうしょうがないじゃん。そんなふうに過ごすしかないじゃん。開き直った。

この少し前に、私は「いま読んで癒やされるストーリーは自分にとって聖書ぐらいしかない」と気づいてもいた。

そんなわけで、カトリックの決まった祈りを祈ってみたり、トラウマ治療系のイメージワークの中で祈ってみたり、聖書を読んでみたりしながら過ごすことにした。そして、そんなことをするたびに、「これはこうする以外に癒やされない痛みだ」と感じる。

多くの情報は、この苦境は数年単位で続くことを示唆している。今のところ、おおよそすべての人が新型コロナウイルスやその蔓延による医療崩壊を原因として、自分や周囲の人の死ぬことに怯えながら生きるしかない。経済活動自粛による世界レベルの経済的危機も戦後以来かつてないものとなっている。

愚痴って発散するにも限りがあるし、手をとって慰めあおうにも、私たちは互いに触れ合うことがない。どんな素敵で美味しいものも、自分の家庭にこもってもそもそと食べるしかない。身辺で亡くなった人のいる人、明日のごはんや家をどうしようかという人がいる中で、あまり愚痴を言ったり、自分の気休めのために冗談を言ったりすることもはばかられる。

何か人のために行動するにも限りがある。自分だって経済的に厳しいところに立たされているし、外出は制限されているし、何より物資によっては世界全体で枯渇している。では情報はといえば、皆を力づけるような新しくて正しい情報なんか、いままさに専門家が探しているところだ。

じゃあもう、仕方ないから祈ろうじゃないか。もう、こうする以上に私たちには何もできないから、このコロナ禍が少しでもマシな形で、一日でも早く終息するように、この困難を私たちが少しでも力づけられて乗り切れるように……

私の母はキリスト教にとても近いところで過ごしながら、霊的な先輩に恵まれなかったのか、結局洗礼を受けずじまいだった人だ。そんな彼女も、私の幼いころから、キリスト教関連の印象的な言葉を教えてくれたりしている。

たとえば、母の知り合いの牧師さんのこと。彼は病気をして牧師を引退し、家で療養していたのだけど、病気で思うように身体が動かなくなっていたところにさらに目が見えなくなって、たいそう難儀な生活を送っているとのことだった。確か、ガンとその転移とかじゃなかったかと思う。

彼が母にくれたはがきに書いてあった言葉に、母は感激して、私に涙声で音読して聞かせてくれた。こんな感じの文面だった。

私はもう、身体も動かず、目も見えません。残された命も限られています。けれど神は私から、祈る力だけは取り上げられなかった。私にはもうできることがほとんどありませんが、祈ることだけは許されている。不自由な身体で、いっそう神さまの愛を実感させていただく日々です。

そう、「この現実に対し、自分にはもうできることがほとんどない」となったときに、人はたぶん、自然と祈るのだ。

以前オットと観にいった映画のことも思い出す。題名が思い出せないのだけど、山奥や荒野のバラックに住む貧しい子どもたちが、断崖絶壁を数時間かけて越えたり、象やライオンのいる危険な道を半日歩いたりして学校に通う話だ。親たちは、そんな子どもたちに身支度をさせ、名残惜しげにキスをしながら、「神よ、この子の命を今日もお守りください、再び私たちのもとにこの子を元気で帰してください」と祈る。

私は思わず涙ぐんでしまったけれど、横を見るとオットはグズグズに泣いていた。祈りというのはきっと人類の中で、こういった切実な状況の中で立ち上がってきたものなのだと思った。

旧約聖書を読んでいても思う。自然は厳しく、食料は足りず、弱い者は容易に見捨てられ、人と人がすぐに殺し合ってしまうような現実の中にあったら、そりゃあ皆、自分と一族の今日とこれからの安全のために祈るし、生贄を捧げれば神のご機嫌がとれると信じていれば、そりゃあ羊だの自分の息子だのを屠って捧げもするだろう。

神は与え、また奪う。人がいつか死ぬように私たちを作ったのも神だ。私たちは愛しい者の死の予感に怯え、死ねば打ちひしがれる。自分の置かれた苦境があまりにひどければ、ときには神を呪いもする。でも、そんなときに神に呪いの言葉を吐きながらも空の青さに打たれるように人を作ったのも神だ。

この世はなんてクソッタレなんだ。こんな世界滅びてしまえばいい。けれど、どうしてこの空はこんなに青いんだろう。

いままでの人生上いちばん苦しかったとき、こんなふうに思って自殺をやめたことが何度もあった。

神に栄光あれ。

※今日はここまで無料ですが、マガジンを有料購読してくださっている方のために、ちょっとしたおまけをつけておきます。私が好きな、自然の美しさをたたえる聖歌の紹介。

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