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「私を傷つけたのは主に女性だった」という事実について

正月休みに、『82年生まれ、キム・ジヨン』を読んだ。世間で言われているとおり、大きな衝撃をくれる作品だった。これとほぼ同時期、私は自分のトラウマ(心的外傷)をえぐるようなできごとに巻き込まれた。

自分に起こるPTSD(心的外傷後ストレス障害)の症状をどうにかしようとセルフケアを試みるなかで、「自分のトラウマ体験の加害者の大半は女性だった」と気づいた。この気づきには、稲妻に貫かれるような衝撃を覚えた。

こうした経緯は、現在構想中の書籍のコンセプトにも大きく影響するだろう。考えたことを少しまとめておきたい。

私を傷つけた人の大半は女性だった

私は複雑性PTSD(複雑性心的外傷後ストレス障害)の診断を受けている。診断の核となったトラウマ体験は、小学校当時の担任教師(女性)からの身体的暴力と精神的支配だ。彼女は恐怖政治のようなものを敷いて児童を支配するタイプで、私に暴力をふるったり、学級会で濡れ衣を着せてつるし上げたりした。

次に私に直接的な大きな影響を与えているトラウマ体験は、実家の実母からのマルトリートメントだ。彼女には精神疾患があった。彼女は、娘である私を親として養育する力を欠き、むしろ私を母親のように見て、私が30歳を過ぎて実家を逃げ出すまでの間、長きにわたって精神的物理的に依存したのだった。

この二件のほかには、いじめや排除、理不尽な叱責、善意の形をとった二次的加害など、自分の心に小骨のように刺さったままの嫌な経験がたくさんある。詳細は省くが、このように私の心に長きにわたって影を落としている経験では、直接の加害者はみな女性。加害者が女性でない場合、現場で采配を振るっていたのはみな女性だった。

男性からの加害には傷つかずにこれた不思議

私もほかの女性と同じように、男性からの加害も受けてきている。少女時代は痴漢や露出狂、誘拐未遂などに遭うのは日常茶飯事だった。大学時代には同級の男子学生から「女のくせに」のような差別的な言葉をぶつけられることもよくあったし、学生同士の集まりでは女はいつも飯炊き要員に駆り出された。実家では、家事を手伝うといえば呼ばれるのは兄ではなく私だった。デートDVやストーカーの被害にも何度か遭った。通りすがりの男性や仕事関係の男性から性的・差別的な加害に遭うこともあったし、今でもそういった大小の被害体験は続いている。こうした経験は、『82年生まれ、キム・ジヨン』に克明に描かれているのと全く同じようなものだ。

けれど、私の場合に限って言えば、こうした男性たちからの加害は私の心にそれほどの影を落としていない。

私への男性たちからの加害は、「わかりやすい加害の形をしていた」。だからこちらも、そのつもりで瞬間的に怒りを抱き、心のなかでパッとはねのけることが比較的容易だったのだ。また幸運にも、私が男性たちから受けた加害は「怒れば、大声を出せば、全速力で走れば逃れられる程度・タイプのものに限られていた」。だから私は傷つかずにこれた。

※太字でも強調していますが、私が男性からの加害に傷つかなかったのは単に個人的な幸運によるものと認識しています。男性からの加害に傷ついた女性を否定する意図はまったくありません。私が今までにレイプに遭っていないことも、男性から命の危険を感じる加害を受けたことが複数ありながらさして傷ついていないことも、単なる幸運と考えています。

「あなたのために言ってあげる。みんなこうしてきたの」

男性たちからの加害は、私にとっては「逃れられる」ものであり、そもそも出会う機会が少ないものだった。これは私が、障害(発達障害)のためにいわゆる「社会 ≒ 男の世界」に出ることに失敗し、「家庭 ≒ 女の世界」に縛りつけられていたことによると思う。

「社会」に適応できず、以前は今のような支援ともつながっていなかった私には、どんな目に遭っても「家庭」の中にいつづける以外に選択肢がなかったのだ。もし私に障害がなく、「社会」に出る力があったら、ほかの多くの女性たちと同じように、男性からの加害により多く傷つけられることになっただろう。

女性たちからの加害は、最初加害ではない形… ときにはむしろ愛のような形をして、非常にウエットに私の心の中に入り込み、長きにわたって私を苦しませた。

私の側に、「同じ女性だからわかってくれるはず」という期待もあっただろう。物心ついたときから母に侵入されつづけるうちについた心の癖(自他境界を越えての侵入を許してしまう)もあろう。だけど加害する彼女らの側にも、私を自身と同一視する自他境界の曖昧さがあったに違いない。

女性たちは、押しつけられたジェンダーロールの中で積もりに積もった苦しみを、まさにその同じジェンダーロール、「愛や優しさ」の形に(無意識に)仕立てあげて、同じ「家庭」の中に生きる、もっと弱い年下の者に渡してしまう。

あなたのために言ってあげる。世の中は立場が上の者に従うようにできてるの。みんなそうしてきたの

「立場が上の者に従う」ことを「正しいこと」として内面化していた彼女らにとって、賢かった私は脅威だっただろう。彼女らの理屈に穴があると見抜いてしまう私を、パワーで抑え込みにかかった。「失礼だ」「わがままだ」「性格が悪い」「冷淡だ」「性根が悪い」「傲慢だ」「誰のおかげで…」… ときには細い腕で腕力をふりかざして。

私はまじめで優しかったので、それをまっすぐに全身で受け止めた。生まれてすいませんと思うようになった。トラウマ治療を受けてずいぶん回復した今も、ときどきこの積もった傷が暴発して、生活に支障をきたすことがある。

悪いのはシステムだ

思うのだ。「悪いのはシステムだ」と。

彼女らは確かに私にとって加害者だった。私は彼女らから暴力と支配を受けた。しかし、彼女ら個人に怒ってみたところで何になろう? あるいは、「女の敵は女だ」などと叫んだところで? 悪いのは、男の世界と女の世界を歴然と隔てる強固な壁… 難しい言葉でいえば、「ホモソーシャルな社会システム」や「カプセル構造」なのではないか。

男だけで固められた世界では男同士の間で、女だけで固められた世界では女同士の間で、歪みや傷が滞留し、こごって、いつか、一筋縄では解けない呪いの固まりのようになる。「女は/子どもは人間(man)ではないからどう扱ってもいいのだ」と。

私のトラウマ体験は、そういった社会全体を支配する堅牢なシステムの中で、起こるべくして起こった(「起こってもかまわない」という意図ではない。単に、「起こったのはごく自然ななりゆきだった」と言いたい)。「私がああ言えば、こうすれば被害に遭わなかったかも」というIFは成り立たない。

つまりあの被害体験は私の責任ではない。私の責任ではないし、私が100年逆立ちしたとてどうこうできることでもない。

私は、加害者が良心の呵責や傷の痛みにさいなまれて改心することを望んでいたりもして、そのために、やはり「ああ言えばよかった、こうすればよかった」とか、「あいつの周囲の状況がこうなればいいのに」とか思っていた。もう30年近くもの時間にわたって。けれどこれもそろそろ、「私には良くも悪くも彼女に1ミリの影響も与えられない」と考えるべきだ。

結局、すでに起こってしまったことについては、あとから人事を尽くしてもどうにもならない。それに、何かの専門家なわけでも、重要な文献をすべて読み解ける教養や体力があるわけでもない私には、これほど大きな社会システムの問題に対して何ができるわけでもない。逆に、何か叫ぶことを、間違っていないか、浅薄ではないか、逆効果にはならないか、と… 恐ろしい、とさえ感じて足がすくむ。

だから、天命を待つよりほかない。つまり、できることはそれこそ、「神にでも祈るぐらいしかない」のだ。

人の弱さと罪について

神といえば、さいきん、キリスト教やジェンダーに関する本を読んでいるのだけど、キリスト教で言われる「原罪」について少し考えが変わる経験をした。ごく簡単にいえば、簡単に「誰かを対等に扱わなくなること、尊重しなくなること」が原罪だったのかもしれない、と。

この本 ↓ の、キリスト教の原罪についての項では、「原罪とは、神が『コミュニケーションするもの』として人を作ったにもかかわらず、コミュニケーションをとるべきところでそれを怠ったことから生まれている」という旨の記述がある。

蛇がエバに知恵の実を勧めたとき、アダムは、本来ならば「蛇がエバにこう言ってますが神様、どうですか、食べていいですか」と訊くべきだった。しかし、アダムはそのやりとりを面倒がって省いた。しかも、神が怒ると、アダムは「この女がくれたので食べました」と、エバに罪をなすりつけようとする。

来住英俊神父はこう言う。
原罪の核にあるものは、よく言われるような「神との約束を破ること」「自分で考えて判断すること」ではない。原罪の核は、アダムが「コミュニケーション(相互交流)を面倒がったこと、エバを利用しようとしたこと」にある。なぜなら、コミュニケーションをとろうとしないこと… 他者を相互に交流するべき対等な者として尊重しないことは、神が人を作った本意への冒涜であるからだ。

こちら↓ の本は、なかなかに文章のテンションが高く、何かと想像で決めつけるような語り方であるため、ついていけない部分も多かったが、原罪についての記述には非常に納得がいった。

この本では、神がアダムのためにエバを創るシーンの訳を、「彼に合う(似ている)者をつくった」とし、なのに彼はエバを自分の持ち物のように貶めた、これが彼の成した原罪である、としている。

このアダムが罪を犯す箇所は、いま最もポピュラーな日本語訳では「彼に合う助ける者」となっており、ポピュラーな英語訳では a helper suitable for him とある。しかし、別の英語訳ではhelperという単語がなく、a suitable companion とか a suitable partner、a companion for him who corresponds to him などとなっている。

わからないなりにギリシャ語聖書の文言と照らし合わせてみたが、このくだりの核にあるニュアンスは「人がひとりでいるのは良くない」というところのようだ。エバは我々が「helper/助ける者」という表現で思い浮かべるような、「お手伝いさん」といった感じの補助的な存在ではなく、だいぶ広く深い「彼と共にある/役に立つ/救う者」といったような意味らしいことが、helpという英単語の語源を遡ってもわかる。(たとえば help oneself  for ~というと、「ひとりで〜する」という意味になる)

つまり、神がエバを創った意図は、『禅と福音』でもあったように、「(対等に、互いによって人となるような切実さ誠実さをもって)コミュニケーションをとらせるため」だったといえる。

アダムはエバを、神の意図したような「アダムを人ならしめる不可欠な存在」から、「自分の自由に扱える持ち物」のように貶めてしまったわけで、これが彼の成した罪の核心だ。

つまり原罪とは、「他者を尊重しうる精神を与えられていながら、ときに他者を尊重することを怠ってしまう、人間の弱さ」なのではないか。もう少し現実的な言葉で言い換えると、ついつい他者に偏見を持ったり差別したり、他者から搾取したりしてしまう、私たちの不完全なところ

そう考えると、「キリスト教の原罪のストーリーは実は『布教のための押しつけがましい言いがかり』なわけでもなく、単に人間の弱さを象徴的に描いたものなのではないか」という、ちょっとした納得がやってくる。

※布教のための押しつけがましい言いがかりとは、たとえば「私たちは生まれながらに罪を背負って生まれてるから、このままじゃ地獄に落ちてしまう! わあ怖い! でもね、イエス・キリストという人が十字架につけられて死んだことによってその罪をあがなってくれたんですよ、信じれば救われます、信じなければ救われません、さあ入信しなさい!」みたいなやつです笑

というわけで、祈るよりほかにできることはない

というわけで、縁あってカトリック信者となった私としては、ともかく祈る以外に… 心がざわつくたびに心身を鎮めて祈る以外に… 自分の限られたエネルギーをもっともよい形で世の中に捧げられるようになるべく、いつも鎮まり、かつ目覚めて祈りつづける以外に… 自分の受けてきた傷に対する当面の対処が見つからない。

そんなわけで、最近はテレビもTwitterもほとんど見ないし、音楽を聞くときはほぼカトリック聖歌だけ、といったような、まるで修道者のような生活をしている。世間的な語彙でいえば「ひきこもり」とか「自閉」みたいな感じだろうか。でも、これほどまでに「まさに自分らしい」と感じられる、しあわせな時間を私はいままで感じたことがない。

この(必死に構築した)静かな生活のなかで、自分を捧げるべき次の作品の姿を見極めていきたい。

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