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雨の日が好きやねん

梅雨明け以降、洗濯がはかどって仕方がない。あっという間にパリッと乾いてしまうからだ。スコンと晴れた空を見やりながらベランダで洗濯物を干していて、突然思い出した言葉があった。

雨の日が好きやねん。

私が10歳かそこらのときに聞いた、母方の祖母の言葉だ。
「洗濯もせんでええ、買い物も行かんでええ、堂々とさぼれて好きなことできるから、私はちょっとな、雨の日が好きやねん」
祖母は、ペロッと舌を出すようにしてコケティッシュに言った。

今なら「カリスマ主婦」と言われるような感じだった祖母は、いつもエネルギッシュだった。子どもの私には彼女は好んで家事をこなしているように見えていたので、「おばあちゃんでも家事がイヤだったりするのか」と驚いた記憶がある。

祖母についての思い出は盆暮れ、特にお盆に集中している。

お盆に遊びに行ったときの、和室にしみついたお線香の匂い。祖母は熱心な浄土真宗の信徒で、毎日「仏さん」にお水とごはんを備え、朝にはすっかり暗唱したお経を唱えていた。私は仏さんにごはんをお供えする係をやらせてもらうのと、朝に祖母の横で一緒にお経を唱えるのがとても好きだった。

手芸屋並みにそこいらを占領している布や糸の匂い、古くなった日当たりの床板のニッキのような匂い、近くを通る線路を走る電車の音、庭の小さな池にいるどんよりした色の鯉がときおり跳ねる音。理系研究者の叔父がサイフォンを使って科学実験のように淹れるコーヒーの香り、祖母の作るガムシロップの甘さ、ジュース用の、柄がくるくるとねじれて長いスプーン。デザートを食べるスプーンのお尻についた、パールがかったピンクや黄緑のプラスチックの飾り、麦茶を入れるガラスポットに黄色い染料で描かれた柑橘の模様。トイレのドアのノブは金属製のもので、長年皆が回しつづけたせいでメッキがはがれてきていた。トイレの中、ペーパーのホルダーにはもちろん祖母がきれいに刺繍して周囲をレース糸でかがったカバーがかけられており、壁には何やらありがたげな文言の記された日めくりが掛かっていた。

祖母は歳をとるのに比例してどんどん裁縫やらクラフトやらに打ち込むようになっていき、その勢いは私が成人するころには周囲の人間には処しきれないほどになっていた。常に作業していないと落ち着かないようで、周囲の人や私たちにどんどんポーチやら編み物作品やらを到底使い切れないほどくれようとする。ありがたがって受け取らないとすねて大変だ。家を行き来するときには特に必要なくても食事の用意を頼み、やいのやいのテンション高く絶賛しながら完食して、即座に次の食事の希望を言わなければ怒ってしまう。

彼女がそのようにバランスを欠いていった理由が、実家を駆け落ちするように出て結婚し、「人並みの女」になってから私は、なんとなく理解できるようになった。

彼女は研究者だった夫が研究に打ち込む背中を見ながら編み物や刺繍に没頭した。有能でエネルギーに溢れた彼女は、今であればネットをうまく使って発信したり起業したりしたらバランスよく生きられたのだろう。けれど、彼女の世代には女といえば結婚すれば家庭に入る以外の道は用意されていなかった。大事な夫の研究の邪魔をするわけにはいかず、遣り場のないエネルギーを趣味にぶつけてなんとかしばらくしのいだと思ったら、今度は早々にその夫が死んでしまった。子どもたちは自立してしまった。それはタガだって外れるだろう。

彼女とは私が実家を出る1年前ぐらいに大喧嘩した。きっかけは、正月に遊びに来た彼女が何を思ったのか突然「あんた自分のこと偉い思てるやろ」「小さい頃は可愛かったのに」とえらく皮肉っぽく絡んできたことだった。自分を社会のお荷物だと感じ、毎日毎日死にたいと思っていた当時の私にとって、この人だけは親族の女性の中で純粋に自分を愛してくれているはずだと望みをかけていた私にとって、これは大きなショックだった。一晩中泣き明かしたあと猛然と反論したら、彼女はおーんおーんと声をあげて泣きながら「こんなことになるなら来ーへんかったらよかった!」と叫んだ。そして実際にそのままさっさと荷物をまとめて帰ってしまった。

母は、いつも不安げで神経質で動作は鈍く、いかにも弱々しくて周囲が助けてやらねば一歩も歩けないような感じの人だ。それに比べてこの祖母は、こうも勢いとエネルギーがあるのか、母娘でこれほど違うものか、と私は圧倒された。夏のゲリラ豪雨を見るようなある種のすがすがしさを感じながらも、こんな人が母親だったのなら母もしんどかっただろうな、と納得した。

私が駆け落ちして遠く離れたところに住むようになったから、祖母とはそれから二度と会わないままだった。2年前に父から突然、「おばあちゃんはかねてからがんを患っていましたが、きょう亡くなったと連絡がありました」とメッセージが来た。

ああ、あんなエネルギーの塊みたいな人も死ぬんだな。そして大好きな夫のところにようやく行けたんだな…… 私はとっさにそう思った。

私が20代後半のころに祖父の三十三回忌だったかがあって、「死んで30年以上も弔いつづけるのか、私がいままで生きてきた年月以上の日々、誰かを弔いつづけるものなのか」と震えるような気持ちになったことがあった。けれど結婚した今ならわかる、祖母は毎朝、仏さんにお経をあげていたのではない。大好きな夫と束の間の逢瀬をしていたのだ。それを40年か50年か続けて、ようやく彼のところに行けたのだ。

それはいいんだけど、おばあちゃん。私は混乱したままです。私の中にある、あなたにまつわるすべての映像に、ごく薄い痛みのフィルターがかかっています。

人の人生も過去も愛も記憶も、すっきりと美しいものだけで済むものではないことは、頭ではわかる。けれど、願わくば私の思い出が、あなたへの純粋な、あたたかくてまぶしい思慕だけで満たされていてほしかった。

真夏のピーカン晴れの日に、雨の日が好きだった祖母のことを思い出す。

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