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知的好奇心が強すぎて困ること

幼いころから私は考えることが好きで,生徒よりも教師と話すことが極端に多かった。特に学問のことに興味を持っていたので,より学術的なことに詳しい教師とよく話していた。なので面談のときも普段と同じように話すだけ。むしろ,教師と1対1で話す貴重な機会なので,好きな行事でもあった。

しかし,ある面談のとき,私はアイデンティティをある教師に壊された。好奇心を捨てろ,その性格を改めろというようなことを言われて,かなり自信をなくした。その教師は数学科出身らしいが,数学を何だと思っているのか疑問が残った。

数学はそもそも知的好奇心がないと発展してこなかったはずなのに,数学の研究にその教師は関与しなかったのか。私の解釈では,おそらく大学を教育機関と思っていて研究機関とは思っていないのではないかと言える。

教えられたことを直接身につけるだけで,数学に関して疑問を何一つ持たないのだろう。

だが,その教師が私に好奇心を捨てるように言ったのは,学習の効率を第一に考えているからであった。



数学など学問を"身につける"ときは,いち早く定着させることが好ましい。そのため学習の効率はなるべく良くする必要がある。何事にも疑問を持ちすぎずに学習することがポイントになる。

学問を"研究する"場合は,より多くの考えを持って検証したり,ある理論が本当に正しいのか疑って仮説を立てたりする。つまり,学問の本質的なことに疑問を持ち無関心でいてはならないということだ。


ここで私は後者の"研究する"ほうの思考を優先していたとわかる。私のアイデンティティである学問もそうして学んできた。そもそも私は曖昧な説明をされるのが昔から異常に嫌っていた。そういう性格だ(MBTI的に言うとN型)。

特に高校や一部の大学では学生が知識や技能を定着させることが目的であることが多い。なので私が好奇心を捨てると効率は上がると考えられる。

私はいちいち疑問を持ちすぎてしまうので,学習の効率はかなり悪い。直そうとしても,理解して納得しなければ気が済まない。ついでに性格を改めろと言うのは,考えすぎて何もしないことが良くないからだと思っているのだろう(MBTI的にはN型をS型に改めろと言える)。

性格を改めるのは難しいが,私のアイデンティティである学問をやめることはできない。論理学,言語学,数学,倫理学,哲学,人類学など,どれも私にとっては愛すべき学問で,すべて好みで学んでいる。

教育機関のような大学も研究機関としての大学も,なくてはならないだろうが,教えられたことを直接身につけるだけでは理解が深まらないと私は断言する。これは情報を鵜呑みにしているようなもので,「学校で教えられているから正しい」と言って自分で確かめようとしないようでは,正しさを判定する基準が得られないのではないかと思われる。

いずれにしても問題はあるので,好奇心を捨てろと一方的に強要せず,中立的な立場をとり保つほうが私は良いと考える。

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