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他空派の宗論 17

第三項(第二項ではないかと思う)[修行道]を説くにあたり、[修行道の拠りどころ]と[修行道本論]のニより、

第一項[修行道の拠りどころ]
無間業が心相続にある者のように業の障がある者と、煩悩の強い女性や両性者のような煩悩の障をもつ者と、倶盧州のような異熟の障がある者の三者の何れでもない身体の拠りどころと、
「六禅定地」という、初禅の未至定と、ただの本禅定と特別な禅定の二つ、第二禅定、第三禅定、第四禅定のような心の拠りどころの、(心身)ニつ(の拠りどころ)がある。

第二項[修行道本論]において、[一般的に示す][修習次第]のニより、

第一項[一般的に示す]において、[定義][分類]のニより、

第一項[定義]は、「それに入れば、自らの結果である涅槃へ至らせるものとなる、修行道に入った者の意識」が、修行道の定義である。これと現観(顕らかな状態で悟る)、乗などが同義。

第二項[分類]において五あるので、それらの定義は順次、「法現観(法を悟る)」が資量道の定義。「義現観(意味を悟る)」が加行道の定義。「諦現観(真実を悟る)」が見道の定義。「後現観(後に悟る)」が修道の定義。「各々の完全な学処が極められた道」が無学道の定義である。

第二項[修習次第]において、[修習法本論][備考]のニより、

第一項[修習法本論]において、[等引][後得]のニより、

第一項[等引]は、心そのものが本質として光明であるあり方を修習し、それも資量道においては、如来蔵である法性、自然生起の智慧を信仰の対象として修習する。
そして加行道においては、外の客体である外界の対象と、内の錯誤である一時的な心の二つが、本性は実在が無いあり様を修習する。
そして見道においては、法性の智慧の一部のみを顕現させる面から修習する。
そして修道においては、法性の部分を次第に顕現させるところから優れて修習する力より、最終的に光明である如来蔵が一切の部分から顕現したならば、無学道を得たのである。
それらの方法は『解深密教』より、「雲を見る空に太陽のごとく、ここに知恵をもつ君よ。心眼の晴れた最高の聖者であろうとも一切を見ることはない。世尊よ、あなたは法身であるものの果てしない知恵で、虚空界に遍く満ちる果てなき所知を、それらによって全て見る。」や、『法界讃』より、「かくも満ちゆく月においては、月が次第に満ちていくように、そのごとく(菩薩)地に入った者達が、次第に次第に満ちていくように見る。かくも十五夜において、満月が完成し明らかであるように、そのごとく(菩薩)地の究極には、法身も完成し明らかである。」など、詳細に説かれたごとくである。

第二項[後得]においては、等引の力と、目的をもって修習した力の何れかの面から、全ての後得において恒常不変の法性を信じ、世俗の現れであるものは、現れと空の二つを合わせた幻のようなあり方として映るものである。

修行道と書かれると、
「道」の意味がわかり辛い。

修行道で「道」と出てきた時には、
修行している意識を表す。
「道」だが、
「心」「知覚」である。

修行する意識の拠りどころには
身体と心の二つある。

心の方が分かりやすいので先に記すと、
一点集中の瞑想をすることによって
心が安定して、
三昧を経て
禅定という状態になる。

禅定には四段階あり、
初禅定・第二禅定・第三禅定・第四禅定と
順次、非常に安定した
微細な意識状態になっていく。

この初禅に未だ至っていない未至定と
ただ初禅定にとどまる禅定と
第二禅定に向かって更に禅定を深めている特別な禅定で、初禅定に付随して三つを数える。

そこに第二、第三、第四と加えて
計六段階の意識が、
修行する意識の拠りどころとなる。

修行する意識は
非常に安定した
深い瞑想状態でなければいけない。

身体の拠りどころは、
先ず「あまりにも酷いことをしていない」
という条件がある。

無間業とは、
死んだら間をおかず地獄に堕ちる業のことで、
①父を殺す
②母を殺す
③阿羅漢(解脱を得た者)を殺す
④僧伽(僧団)を分裂させる
⑤仏像に悪き動機をもって血を流させる
(血を描く)
の五である。

上記の五悪業を積むと
非常に強く悪影響が心に刻まれるので
その結果も目に見える形で現れ
修行をするに適さなくなるという。

救いがあるとすれば、
今生で行えばすぐには無理だが、
悪業の報いを経験した後には
カルマから解放されて
修行ができるということだ。

修行する意識は
禅定によって法界を修ずるので
欲望や怒りなどの煩悩が強い者は
外に気が散って修行が難しい。

その例として
女性や両性具有者があげられているが
個人的には
例外もいると思っている。

「倶盧州」とは
北倶盧州のこと。

北倶盧州は人界でありながら
非常にカルマの安定した人々の住む世界で
我々の住む世界のように
寿命に至らず死ぬこともない。

所有の概念が無いので
全てを皆が共有している。

生活に困ることもなく
急に亡くなることもなく
非常に長生きなので

皆幸せで、修行しようなんて思わない。

修行に入るには
厭世感が必要なのである。

それらの条件が揃った世界に
身体をもって生きる者が、
修行道を修することができる。

「異熟」とは、
前世のカルマが来世という異なった生で
熟した結果をいう。


分類された五段階の修行道は
修行を始める決心をしてから
資量道、加行道、見道、修道、無学道と
上がっていく。

真実を顕らかに悟る見道から、
空性を直覚する。

修習法の「等引(とういん)」「後得(ごとく)」とは、

「等引」は空性を直覚している瞑想状態。

「後得」は後に得る状態で、
等引以外の状態全てが当てはまる。
瞑想からさめた時である。

空性を直覚している時
空性を悟っているという認識はないけれど
その意識経験は非常に強力である。

空性に入り込む等引か
それ以外の瞑想状態からさめた時、

修行者は
粗い二元の顕在意識には映らないけれど
常に安定してあり続ける法性を信じる。

そして、目前に現れる世界としての
映像はあるけれど

映像が映っている主客二元の意識自体が
実は間違っていると知っているので、

現れと
実在が欠如した空性が融合した
幻のようなものとして
世界を認識する。

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