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別れの悲しみ

※この記事では、ペットの死に関して私個人の体験と感じた事を書いています。
センシティブなテーマでもあるので、もしかすると不愉快に思う方もいらっしゃるかもしれません。ご了承いただける方はお読みください。


何から書こうか、どのように書こうか、そもそも書くべきなのか、色々考えた。
でも、頭の中を整理する意味でも書いておこうと思う。


可愛がっていたウサギが亡くなった。


最初の一文からなかなか決まらなかった。

「死ぬ」と書くとあまりに他人事過ぎるような気がする。

「旅立った」というのも違う気がする。
まだその辺りにいるような気がして旅立った感じがしないからだ。

「あの世」とは違う。

「命が尽きた」も違う気がする。

何かあっという間にスッといなくなってしまった。


そのウサギは隣の女の子が飼っていたウサギだった。

隣人は旅行することが多かったため、0歳の時から毎年1年のうち合計2、3か月ぐらいは預かってきた。

ウサギの飼育なんて初めてだし、大変なことも時にはあったけれど(外で遊ばせた後に逃げ回って小屋に戻ってくれない、とか)家族の一員みたいな感じで楽しかった。一緒にいる時間が増えれば増えるほど新しい発見があり、その子のことが良く分かるようになってより可愛く感じられた。

でも7歳になる年のある日、ウサギは急に調子を崩して、その日のうちに亡くなってしまった。

あまりに急なことで、おろおろと見守るしかなかった。撫でながら「まだ生きるべき命なら助かりますように、もう次に行くべき命なら苦しまずに次へ行けますように」と祈り、目の前で起こっていることを把握するのに必死だった。

そうするうちに、ろうそくの火がフッと吹き消されるように
命が消えてなくなってしまった。

つい今朝までは元気に生きていたのに。

命の火が消えてしまうと、体は急に単なる入れ物になる。

今さっき脱ぎ捨てられた上着のように、温もりは残っているけれどその上着を着ていた本人はもうそこにはいない。

悲しさでいっぱいになりながらも妙に冷静にそんなことを思った。


ウサギは火葬され、軽い軽い灰になって帰って来た。

でもその灰にその子がいるようには思えない。

灰はその子の体(=入れ物)の灰であって、その子自身ではない。

じゃあその子はどこに行ってしまったんだろう?


外出先から帰るたび、ウサギ小屋の方を見てしまう。いつもなら、私の気配を感じて足を踏み鳴らしたのに。その音はもう聞こえない。

でもなんかまだそこにいるような気がして、小屋をじっと見てしまう。

外に出てるんかな?と庭を見渡す。

少ししてやっと、ああ、もういないのか。と頭が理解する。

そして喪失感に襲われる。

人参の皮やヘタの部分、ブロッコリーの茎、キャベツの芯。
料理する時に集めながら、

ああ、もう必要ないんだった。

と、空虚な気分になる。

そしてまた冷静な私が言う。

喪失感や悲しみは残された側が持つ感情である。
いなくなったから悲しい、と思うのはあくまで私の事情だ。
悲しんだってウサギは喜ばない。

・・・じゃあどうすれば?
亡くなったウサギが喜ぶことって何?

答えのない質問が頭をめぐる。

例えば魂というのがあるとして、亡くなったウサギのそれが今どこにあろうと、またどこかで生まれ変わることになろうと、とにかく幸せであるようにお祈りするしかない。それが今できる唯一のことかもしれない。



※これは去年2021年の夏に書いたものです。
書いたものの、投稿をためらってずっと下書きフォルダーに入れたままでした。

季節が一周して、まだ元気でウチの玄関を出たり入ったりして遊んでいた時のことをふと思い出しました。眠っていた記事を読み返し、公開できる気分になったので投稿します。記事を書き始めた日付を見たらちょうど1年前の今日でした。

気付くと勝手に家の中に入って来てくつろいでいたウサギ君。
どこかに生まれ変わって元気にしてるかもね。


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