#7 教養の基本は国語力である

国語よりも英語を優先する日本の教育

 今回は,学校教育や社会人の教養の中でも重要だと思う国語をテーマにお話ししたいと思います。国語が重要である理由は後半で述べますが,現在の学校教育,あるいは社会一般では国語教育よりも英語教育が重視されています。具体的にその現状を列挙すれば,国際化という名のもとに,今では小学校から英語教育が必修となっています。また,一部の富裕層は子どもをアメリカンスクールに通わせたり,幼いころから英語教室に通わせたりと,英語を身に着けさせることに躍起になっているようにも見えます。そして英語を身に着けたうえで,高校や大学では海外留学に行くことを推奨し,その後外資系の企業に就職する,それがエリート教育であるかのように思われています。
 確かに,海外で活躍できる人材の育成は日本にとっても大切なことです。しかし海外で活躍する人材は日本人として振る舞うことが求められます。日本人であることの意味は,日本の歴史や文化を理解し,そうした基盤の上であくまでも「道具として」英語を使いこなすことではないかと思うのです。そして日本の歴史や文化を理解するために必要なのは国語たる日本語であることは言うまでもありません。
 言語は文化を表しています。認知言語学の分野では,英語という言語は神の視点から自分自身を含めた世界を見渡す言語であると解釈されています。例えば「友達と会った」を英訳すると「I met with my friends.」となり(英訳の文法が誤っているかもしれませんが,ご容赦ください),friendに複数形のsが付くのです。これは神視点から私と友達の複数人を認識することからきています。欧米圏ではキリスト教が主流であり,英語という言語もキリスト教の影響を受けていることから,神視点という概念が出てくるのです。一方の日本語は,私目線で話します。ですから先の例で言えば,友達は目の前にいる単数の人間ということになります。
 このように,言語はその文化によって形作られるものであり,単に日本語を英訳する,あるいは英語を日本語訳すればよいというものではなく,お互いの文化の違いを踏まえながら英語を使うべきではないかと思います。

あらゆる教育の基本となる国語

 学校の様々な教科の中で国語がいかに重要かについて,大学受験,とりわけ大学入学共通テストを例に説明したいと思います。センター試験から共通テストに移行した際,難易度は飛躍的に増加しました。その理由は考える力を身に着けさせることを重視した結果,思考力を問う問題が中心となったことにあります。簡単に言えば,大量の文章を読みといたうえでその分野の問題に答えるという形式になったのです。つまり,共通テストを攻略するためには,何をおいても文章の読解力を身につけなければ太刀打ちできないということなのです。さらに2025年度からは新課程による共通テストに移行し,国語では実用的な文章の読解が追加されるなど,文章を読み解く能力はますます重要になってくると思われます。
 また,日本語という文章の特性から国語を学ぶことの重要性について考えたいと思います。日本語の特徴はいくつかありますが,今回強調したいのは,日本語は「行間をとらえる言語である」ということです。日本語は英語と異なる点として,しばしば主語を省略します。これは自分を主張しない,さらに言えば行為者を特定しないことで責任の所在を明確にしない,という日本人の習慣や性質を反映しているといえます。あるいは,主語の次に動詞を述べる英語と異なり,日本語では動詞は文末に述べられることが多いと思います。これも行為を明確にせず目的語や修飾語を前置きしてから述べるという,物事をはっきりさせない日本人の性質によるものと解釈できます。
 こうした日本語の特性を考えると,日本語を使用するうえで重要なのは,誰かが言葉を発した際に,それを額面通り受け取るのではなく,その状況に応じて発された言葉(あるいは文章)の行間を読み取らなければならないということです。いわば,国語の読解でよくみられる「作者の気持ちを答えましょう」といったものに近い能力が求められるのです。そして,こうした能力は,日ごろから長い文章に接していなければ身につきません。

国語能力の低下がもたらすもの

 このように国語の能力が重要であるにもかかわらず,現代の人々,特に若い人たちの国語力は年々低下していると感じています。その背景にはインターネットの普及,とりわけSNSの進展が関係していると考えています。今の若者たちにとってのコミュニケーションツールはLINEなどの短文でメッセージのやり取りができる媒体が主流になっています。そこで交わされるやり取りは「どこにいく?」とか「そうしよう」などの単語中心になります。単語中心のやり取りしかしないと,長い文章が書くという習慣がなくなってしまいます。僕は某大学で教員を務めていますが,長い文章をを書かせると箇条書きになるか,脈絡のない短文の羅列で書かれるか,といったレポートが散見されます。中には学校の授業でしか長文を書かないという学生もいるほどです。
 国語の能力が低下していると感じるのは若者に限りません。例えば,ネット上のコミュニケーションツールであるx(旧ツイッター)では,日々様々な投稿(ポスト)や,誰かの投稿に対するリプライを見ることができますが,しばしばリプライをする中でのトラブルを目にすることがあります。僕はそうしたトラブルを目にしたとき,原因の多くは文章の解釈の行き違いによるものであると感じています。その一例を紹介すると,Aさんが主語を特定せずに何かに対する批判を含んだ文章を発したとします。するとそれを見たBさんが主語を勝手に特定して「Aさんは主語となった人を批判している」と解釈してAさんを非難する,といったものです。当然,Aさんは主語を特定していないわけですから,Bさんに反論することになり,お互いの解釈が一致しないまま平行線で会話を続け,最悪の場合,お互いがお互いを罵り合う…ということになってしまいます。こうした事例を見るたび,社会人であっても国語の能力が低下しているのではないかと感じてしまうのです。
 さらに,人々が使う言葉の表現方法にも国語力の低下が見て取れます。例えば「疲れた」「楽しい」「美しい」「醜い」などの感情表現についてみても,多様な表現方法を持っています。一例として「楽しい」を表現する場合「極楽だ」「愉快だ」といった楽しさの微妙な違いを表したり,「空にも上るようだ」「盆と正月が一緒に来たようだ」というように楽しさを比喩で表現したりします。ところが,こうした豊かな感情表現があるにもかかわらず,どんな感情に対しても「ヤバい」と表現してしまうことが,正に「ヤバい」状況なのではないかと思うのです。

おわりに

 今回は,知識に属する話題として,学校教育あるいは社会人の教養において国語が重要であることをお話ししました。かくいう僕自身も,国語の能力がさほど身についていないなぁと思っています。それは僕のダラダラとした文章からも実感していただけるのではないでしょうか。国語力を強化する具体的な方法は改めて述べるとして,学校教育であれ社会人の教養であれ,何をおいても国語の能力を強化することが重要だと感じていただければと思います。本日も,ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

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