(第6回)山間の極楽浄土、浄瑠璃寺庭園
ああ「この世は天国だ」だの、「地獄を見た」だの、人は何かというと死後の世界を話題に出す。この世に出て間なしの若いうちはともかく、人間も人生の半ばを過ぎると、「あの世」のことが気になり始める。あまり口に出したくはないが、家族団らんや幸福が恋しい冬の季節になると、自らそっち方面へと出かけてしまう人さえいる。人は、ずっと昔から、死後の世界のことを思い続けている。
人は死後を不安視するあまり、そこに「極楽浄土」を据えた。しっかり己の時間を生きてさえいれば、行き着く先は「極めて心地いい清らかな場所」、そんな行末が待っていると言い聞かせ、信じ、生きてきたのである。
京都府の山あいにある浄瑠璃寺は、極楽浄土の庭で有名である。
私は折りに触れ、この浄瑠璃寺を訪れる。けっして行きやすい場所ではない。だが、京都や奈良に用事がある際には、わざわざクルマをチャーターしてまでも、必ずこの寺を訪れる。
寺に着くと、足早に庭を見に行く。一度深呼吸をし、全体を眺める。そして、20分いるかいないかで、この場所を後にする。
それはまるで、おばあちゃんのうちに、近くに来たから顔を出した、思春期の男子学生みたいな感覚だ。ろくな挨拶もせず、ただ、出されたお茶とひからびた煎餅を食べながら、おばあちゃんの話をニコリともせずに聞く。そして、お茶を飲み終わるとおもむろに立ち上がり、「おや、もう帰るのかい?」「ああ、また、来るわ」なんて会話を、恥ずかしそうに交わしながら、さっさと家路につく。
帰りながら、「あれ? なんで俺、ばあちゃんち寄ったんだろう」なんて、心のなかで不思議に思う。私の浄瑠璃寺詣では、言うなれば、こんな感じなのである。
浄瑠璃寺は平安時代に建立された寺だ。中央には宝池。池の東側には三重塔が建てられ、薬師如来像が安置されている。これが東の本尊である。
池の岸辺には、南側を向いて潅頂堂があり、すべての生命の根源である大日如来が安置されている(通常は非公開)。西側には、われわれの未来を待ち受ける阿弥陀如来像(九体)が安置された、阿弥陀堂がある。
浄瑠璃寺の伽藍配置は、平安時代末、藤原期に人の心を捉えた「浄土思想」が絵解きのように残されている。薬師如来によってこの世に送り出されたわれわれは、仏の教えに従って生きることにより、阿弥陀如来の待つ西方浄土に往生する。
浄瑠璃寺の庭に立ち、極楽浄土への思いを識る。この静謐な空間は、過去世、現世、未来世と、この世界の深遠なる成り立ちを静かに物語っている。
作家の堀辰雄は、随筆『浄瑠璃寺の春』のなかで、小さな山門から浄瑠璃寺の内部を覗いた時の、ハッとさせられたような驚きを綴っている。私もはじめてこの寺を訪れた時には、なんだかちょっと怖いような、そんな「ハッとさせられ」る驚きを覚えた。
時に、場所は人によって支配される。支配する、俗な言い方をすれば「仕切っている」人が違うと、その地の空気は変わる。神様であれ、おばあちゃんであれ、仕切っている人が違えば、自分のテリトリーとは違う、微妙な空気の揺れを感じる。
浄土思想や来世への思い。それはそう大層なことではない。誰も見たことはないのだから、そんなに難しいことを考えなくてもいい。
そこにいて、けっして居心地がよくなくてもかまわない。ふらっと行ってふらっと顔を出し、人間の行き着く先や来るべき未来を、ちょっとだけ感じる。
以前、「観光とは、心の光を観に行くこと」という、ある僧の言葉を紹介した。死を感じに行く観光が、「生」を生き生きと蘇らせる。これこそまさに、先達から託された「たのしい観光地」である。
〜2017年3月発行『地域人』(大正大学出版会)に掲載したコラムを改訂
【浄瑠璃寺】京都府木津川市加茂西小札場40
創建は1047年。真言律宗の寺院。開基は義明上人。本尊は阿弥陀如来(九体)と薬師如来。九体寺とも呼ばれている。近鉄奈良、JR奈良からバスで約25分ほどかかる。庭園入場は無料。
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