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(第31回) 蘭学者・前野良沢の眠る寺

 相変わらず全国的に緊急事態宣言が続く息苦しい日々が続いている。日本の観光はどうなってしまうのか。その痛手は大きく、未来に向けての「大変革」が迫っているのかもしれない。

 外出規制の続く連休の某日。ちょっとした用事があり、東京・杉並の細い路地を歩いた。中央線・高円寺駅の南方、環状七号線のやや外側に広がる住宅密集地で、その歴史的経緯から、木造住宅が狭い間隔で密接に建っており、大きな災害発生時の「消火活動困難地域」として、随分前から名前の上がっているエリアである。

 昔、この周辺に住んでいたという懐かしさもあり、周囲をのんびりと散歩していた。すると、ある寺に出くわした。慶安寺とある。はて、どこかで聞いた名前だ。思い出した。前野良沢の墓がある寺である。

 前野良沢のことは、吉村昭の小説『冬の鷹』を読んだ時からずっと気になっていた。大分・中津藩の藩医で蘭学者、江戸時代、杉田玄白らとともに『解体新書』を翻訳刊行した人物である。

 彼らは、良沢のもとに集い、一語一語ウンウンと唸りながら、まるで蝸牛の歩みのように翻訳作業を進めていった。当時、オランダ語を(ほんの少しだけ)解するのは前野良沢だけだった。

 蘭学者としての道筋にこだわる良沢。医学の発展を目指し、医学書の完成を煽る杉田玄白。小塚原の刑場で「腑分け」を見物し、『ターヘル・アナトミア』の翻訳を決意した同志である二人は、交流はあったものの、けっして交わらない線のようにたがいの人生を生きた。

 いくつかの経緯があり、『解体新書』に前野良沢の名前はない。その頑迷さ、生真面目さ、信念の強さゆえ、(栄華を誇った杉田玄白に比して)なにかと不遇であった良沢の生き方は、『冬の鷹』に詳しい。

 私は夢中になってこの本を読んだ。彼が『解体新書』に着手したのは、47歳の時だ(杉田玄白は35歳)。それが何よりも刺さった。中年の倦怠期特有の軽いうつ症状で、生きる指針を失いかけていた当時の私の年齢と一緒。ふと、酒を飲む手を止め、考えさせられた。

 そんな私にとっての「片思い」の偉人だが、一昨年、やっと念願の(良沢と縁のある)中津藩の医家を訪ねることができた。東京では、「腑分け」の舞台となった現在の南千住「回向院」にあるレリーフも見た。彼らが翻訳作業のために集まった「中津藩奥平家中屋敷」は、現在の築地・聖路加国際病院の敷地内にあった。病院前の小さな広場にある「蘭学事始の碑」にも表敬訪問を果たした。

 前野良沢の墓が慶安寺にあるという話は、『冬の鷹』のあとがきに記されていた。

 一時、「墓マイラー」と揶揄される、有名人の墓を(縁もゆかりもないのに)訪れる人々のことが話題になった。私はどちらかと言えば「遠慮する」派で、古い人間なので墓の写真を撮ることにも抵抗がある。

 コロナ渦のせいにするわけではないが、私は慶安寺を見つけ、スルスルと中へ入った。「観光仕様」も兼務しているような大きな寺ではなく、地元の檀家さんの法事の舞台としてひっそりと存在しているような、そんなこぢんまりとした寺である。

 門前、本堂を通り、裏手へ入ると、いきなり怖そうな住職が目の前で庭を掃いていた。(一瞬、思いっきりたじろいたが)私は表情を変えず、「すみません、突然失礼します。こちらに前野良沢先生のお墓があると伺ったのですが。もしよろしければ、墓参させていただきたいのですが……」と、若干たどたどしく言った。

 たぶん、私のこの「野次馬感のない姿勢」が良かったのだろう(実際は野次馬なのだが)。住職はニコリともせずに、思いっきり早口で墓の場所を告げた。正直、場所は覚えられなかったが、入ってしまえばなんとかなる。外套を脱ぎ脱帽をし、ゆっくりと探し当てた墓前に立った。

 お邪魔いたします、とだけつぶやき手を合わせた。

 一瞬の間、彼の人生を思った。もちろん、自分とは関係がない。だが、こんな出会いも一期一会、この素敵な時間は観光の一形態とする。

〜2021年6月発行『地域人』(大正大学出版会)に掲載したコラムを改訂


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 大分・中津にある「大江医家資料館」には、前野良沢・杉田玄白らによって訳された『解体新書』の初版本が展示されている。




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