見出し画像

「恋する男たち」は武士道の華

 ようこそ、もんどり堂へ。いい本、変本、貴重な本。本にもいろいろあるが、興味深い本は、どんなに時代を経ても、まるでもんどりうつように私たちの目の前に現れる 

 「男が男に惚れる」。

 これはある人物を最大限に賞賛する際の一種の比喩だ。だが、これがけっして比喩だけではなくなってくることがあるから世の中はややこしい。

 男同士の「忠君」「同志」「友情」。

 その絆を謳う言葉はいろいろあるが、その言葉持つ「意味合い」をほんの少しだけいじってみると、なにやら面妖な世界が浮かび上がる。

 「恋する男たち」「フンドシ祝いの夜に」「主将どうしの恋」。

 大胆にもこんなことをささやく本が、私のもとにもんどってきた。

 『武士道とエロス』(氏家幹人著、講談社現代新書、1995年刊、入手価格315円)である。

 著者の「この道」に対する研究は、少年時代の読書で目にした「草履取りのエピソード」(藤吉郎=後の豊臣秀吉が主君である織田信長の草履を懐中で温めていた)」に「性的な気分」を感じ、生理的な違和感を覚えたことに始まったという。

 <以前は「恋」の気分と不可分だった「忠」という感情。それが時が下がるにつれて前者を剥落させ(あるいは意識下に押しこめ)、後者だけが肥大化していく。それは、武士社会におけるメンタリティーの大きな変化、転換にほかならないだろう>。

 将軍と家臣、敵討の理由、「義兄弟」の意味。

 読み進めるうち、我々の中にある「常識」「非常識」は、歴史の中で微妙に揺れ動いていく。

 だが、男女の性差のはっきりしていた時代の、また男のみが寄り集まる世界を少し離れた視点から眺めてみると、なるほどそんなものなのかねと多少は納得がいく。そして、それは「逸脱した性関係として異常視されるどころか、逆に武士道の華とさえ賛美された」(本書より)けっこうフツーのことだったのである。

 異色の博物学者・南方熊楠(みなかたくまぐす)は、衆道(武士同士の男色)の兄弟関係に倫理的な価値を指摘した。著者はこう指摘する。

 <南方によれば、それはたんに性の愉悦を享受するための男色嗜好ではなく(事実、肉欲を満たすためだけならば、相手(パートナー)を替えることに抵抗はないだろうし、男娼を買って即物的に処理することもできたであろう)、「兄」と「弟」相互の友愛の絆こそが、その本質であるという。南方は、友愛としての衆道を、「男道」または「浄の男道」と呼んで、性の嗜好としての男色と区別しようとした。>

 うーむ。なんだか現代にも当てはまるような当てはまらないような。

 今週のもう一冊は、『極真カラテ二七人の侍~地上最強の格闘技を支えた男たちの伝説』(真樹日佐夫著、サンケイ出版、昭和61=1986年刊)である。

 ご存知、真樹日佐夫氏の空手「男道」を通じた交遊録である。喧嘩があったり嫉妬があったり思いやりがあったり求め合ったり。女性にはわからないかもしれない。男同士の話はいろいろと複雑である。

(2014年、夕刊フジ紙上に連載)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?