見出し画像

「死ぬほどの馬鹿」を読む理由

 ようこそ、もんどり堂へ。いい本、変本、貴重な本。本にもいろいろあるが、興味深い本は、どんなに時代を経ても、まるでもんどりうつように私たちの目の前に現れる。

 私は街に飲みに出る時には必ず、カバーをはずした文庫本を持って家を出る。それは、ひとりで飲んでいる退屈さを紛らわす意味もあるが、必ずしもその本に没頭しなくてもなんとなく開いたページから目に飛び込んでくる言葉やフレーズや描写をほろ酔い気分の頭の中にフワフワと浮遊させる、そんな(ちょっとカッコつけた言い方をすると)「言葉との戯れ」みたいなことが好きで、なんとなくいつも読むともなく文庫本をカウンターの片隅に置いているのである。

 先日ある飲み屋でたまたま隣りに座った年配のレディが、なんの気まぐれだか、私に話しかけてきた。

 「その本、何を読まれているんですか?」。

よく磨かれたグラスの脇に無造作に置かれたボロボロの文庫本が、よほど気になったのだろう。私は一瞬のとまどいを見せながらも、意を決して本の名を告げた。

 「『死ぬほどの馬鹿』(カトリーヌ・アルレー著、安堂信也訳、創元推理文庫、1976年刊)です」。

 期待に沿った答えだったのかそうでなかったのかはわからない。レディはポカンである。私は次の句を続けた。 

「いや、古本屋でタイトルだけ見て買ったんです。まだ途中までしか読んでいないので内容はわかりません。105円でした」と、照れ隠しに少し笑いながら言った。レディはますますきょとんとしたが、思い直すように、「男の人っぽい買い方ですね」と絶妙に会話を終わらせた。

 男っぽい買い方かどうかはわからない。だが、私はこれをぜひおすすめしたい。レコードの「ジャケ買い」ならぬ、古本のタイトル買いである。

 目次などにはなるべく目を通さず、タイトルやカバーの「気になった」まま、闇雲に読むことを決意する。なるべく100円コーナーなどの安い本がいい。外れても100円である。気に入らなきゃ途中で放り投げればいい。自分にとっての掘り出し物があれば儲けもの。自分の凝り固まった見方から解放される分、実は新たな発見も多いのである。そして、おまけだが、偶然の産物である「タイトル買い」は、冒頭のエピソードのような、飲み屋のカウンターでの奇妙な出会いをも生み出す。

 今週のもう一冊は『霊と肉』(山折哲雄著、東京大学出版会、1979年刊、入手価格100円)。

 イメージではもう少し官能的な味わいを想像していたが、死をも味わうようなかなり読み応えのある思想書であった。

 右に出るか左に出るか。このタイトル買い。一度やると案外ハマるプレイである。

                  (2014年、夕刊フジ紙上に連載)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?