見出し画像

旅の真髄は「運動」である

 ようこそ、もんどり堂へ。いい本、変本、貴重な本。本にもいろいろあるが、興味深い本は、どんなに時代を経ても、まるでもんどりうつように私たちの目の前に現れる。

 日本のグローバル化が叫ばれているが、例えば読売ジャイアンツに初の外国人助っ人(デーブ・ジョンソン)がやってきたのでさえ、たかだか46年前のことである。「ガイジン」なんていう言葉が残っているように、まだまだ日本人の鎖国的、単眼的な見方は根深い。

 日本人は身体の大きく、先進的で攻撃的で、まるで天狗様のような「ガイジン」を恐れ、敬い、歯向かい、憧れてきた。最近では日本語をペラペラと話す外国人は珍しくなく、そのガイジン特有のものの見方もあまりありがたがられなくなったような気がする。そんな折り、今回、私の手元にもんどってきたのは、この本である。

 『津軽~失われゆく風景を探して』(アラン・ブース著、柴田京子訳、新潮文庫、1992年刊、入手価格105円)

 アラン・ブース氏は、1946年ロンドン生まれの紀行作家だ。大学で演劇を学んだ後、能に興味をおぼえ、それ以来20年以上も日本に住み着き、国内各地を旅して回った。私も個人的に津軽が好きなので興味深く本書を読んだが、そこに感じ、畏れ敬ったのは、このガイジンの「運動」の感覚である。

 「一人称で書かれた旅行記は一種の自伝である。技術的に一番難しいのは、一人称の視点とその人物が見ている対象(あるいは見ていると思っているもの、あるいは見ているふりをしているもの)とのあいだにどうにかバランスを保つことであり、一番の落とし穴は、ありふれた山歩きを、ふと思いついた純粋哲学的な暗喩に恥ずかしげもなく変形させることにある」(本文より)

 ブースは、太宰治の『津軽』を自らの旅のモチーフにしながら、安易な「暗喩」に陥ることなく、自身が身体を使い、街の人々に溶け込み、おおいに飲み喋り、いわば「運動」としての旅を続けていく。

 彼は、旅行記の真髄をこう悟る。

 「(旅行記に通底する)禅(の思想)とはブーツのゴム底をすり減らす術であると見たり」

 放っておくと、大海原に背を向け、内向的で半端なポエムに陥ってしまいがちな我々日本人の感性を痛痒く刺激してくる。

 今週のもう一冊は、『イザベラ・バードの「日本奥地紀行」を読む』(宮本常一著、平凡社、2002年文庫収蔵、オリジナルは1984年未来社刊)。

 旅自体が過酷な「運動」であった明治期に行われたある英国人女性の旅日記を、民俗学者・宮本常一が温もりのある視点で解説している。

                    (2014年、夕刊フジ紙上に連載)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?