昼下がりの祖師枝さん

 祖師枝さんの死んだ飼い犬は、その体が朽ちる前に自身の半生を振り返り、最期の一瞬に、飼い主について思いを巡らせました。

 飼い主の祖師枝さんは、多趣味で、何もかもが好きでいて、飽きやすく、でも情熱的で、はたまた冷静さを欠き、慎重であるがゆえに臆病で、短気かつ明滅した意識の持ち主でした。自分ルールを持とうとして失敗し、自己投資が必要だと何か新しいことに手を出しては、それが自分にとって最上の運命だとしばらく盲信し、一度壁にぶつかると、やっぱりそうではないと思いなおすことを繰り返す人でした。

 彼はある日ハーモニカを吹こうと決心しました。飼い犬の餌をあげるときでした。これだ、と脳内に至上命題アラームが鳴り響き、今すぐ近所のリサイクルショップに楽器を買いに行けと体に命令を出します。音楽は人生の喜び、人に必要なもの、どうしてこのことに早く気付かなかったのだろうと彼は後悔しましたが不思議と高揚感に包まれていました。彼は飼い犬にエサを与えると、ベッドに横になり、YouTubeやGoogleでハーモニカについて調べます。あらゆる映像と資料が彼の情熱を刺激して、いつしかハーモニカを吹こうという気持ちを、いつもの昼下がりに消えていくただの明滅した感情が上回り、彼のやる気は二度と復活しませんでした。

 何か高尚な習慣を持とうと祖師枝さんは、思い立ちます。ハーモニカを至上命題だと定めて三日後の、気まずい夜半でした。健全な魂は健全な肉体に宿るという言葉を思い出し、筋トレを始めました。彼は駅前のジムに通うことにしましたが、すぐに駅前まで行く努力を持ち合わせていないことに気付きました。そこで何か出かける理由ができたときのついでにジムで契約しようと考え深く満足しました。満足と決心はそのあとPS4でゲームするための燃料になりました。

 祖師枝さんは、自身の要領の悪さ、自分を貫き通す覚悟や付随する努力、計画性や信念が、自分に全くないことに気づかないふりをしています。というよりも、わざとらしく自分は出来の悪い人間だと浅いところで自覚するふりをしていますが、深いところで考えることを放棄し、昼下がりの明滅した感情に身を任せることを良しとしています。

 たまに彼は、この痙攣した精神の疲労感は、特別な才能なのではないかと予感することがありました。いくらなんでも普通の人間はここまで受動的なはずがない、もしかしたらこのもどかしい嘔吐のような体を覆う消極さは、悪魔や死神が与えてくれた自分にはどうすることもできない、ささやかな運命を変えるための呪われた才能なのではないかと邪推しました。そうすると彼は、自身の運命にため息を吐きながらも、やれやれまったくどうしうもない、とニヒルな笑みを浮かべて充足感に満ち溢れるのでした。そういう時は彼の人生に何度も訪れ、その都度何度も同じことを思考して同じ運命に辿り着いたので、いよいよこれは冗談ではなく運命に違いないと恐れつつも、数少ない自分の冒険心を内側から満たしてくれる、湧き水のような運命に内心感謝するのでした。彼には間違いなく世界を変革する力と才能がありました。ただそのことに世界と彼も気付きませんでした。

 彼は一つの職を定めず、派遣仕事を半年か一年繰り返し、その度に休職や失業保険を使って細々と生活していました。定職に就くことは容易いが、そうすると自分の才能が欠けてしまうのではないかと思っていた彼は、至上命題と囁く声に導かれ、毎日を虚無的に暮らしていました。何かを定めて生きることへ、無意識的な抵抗を持っていました。そういった社会制度を隅々まで活用して賢く暮らすことに慣れており、ささやかな誇りを持っていました。しかし、同時に定まって生きる人たちを妬んでいました。なぜ、自分にできないことを彼らはやすやすと行えるのか。彼は自分の知らないところで安定を望んでいましたが、彼の至上命題はそれを悪と判断していました。祖師枝さんは、自分にできないことを悪として裁き、誰にも悟られずに反抗して生きる自分の抵抗者のような生き様を、ひどくセンシティブな感情で是としていました。

 祖師枝さんには老いぼれた雑種の白い犬を飼っていましたが、ペットショップの純血種たちを欲しがっていました。ガラスケース越しの犬や猫にぎこちなく笑いかけ、まったく相手にされず、店員に何度も呼び止められ恥ずかしい思いをしました。そういう時彼は、分相応を知る必要があると自分に言い聞かせました。自分には純血の犬猫は似合わない、その代わり雑種のような犬猫を愛することができ、それは好ましいことであり、まだ見えない才能の片鱗だと、ガラスケースをねっとりとなぞりました。彼は自分の中の自意識と至上命題に話す時はは、バラエティ番組の司会者のように饒舌でしたが、実際のところはいつもまごまごと喋り、文脈を判断することも論旨を把握することもままなりませんでした。彼には一時付き合っていた女性がいましたが、彼女が別れ際に説明した理由について彼は何一つ理解できませんでした。文章を構成するのが単語だと思えなくなるほどでした。その出来事が一つの契機となり、彼は一定のシークエンスを理解できないことも、自分の才能の一つなのだと判断するようになりました。現に彼は、店員の問いかけに対し古靴を引きずるような音節で返答し、店員が困っている間にそっと店を抜け出すことを得意としていました。

 祖師枝さんの特技は男も女も関係なく愛を注げることと、どこでも嘔吐できることでした。前者について、彼は恥ずかしく思いながらもとても素晴らしいことだと自負していました。あまり人には言えないけれど、隠されたプライドの裏打ちでした。彼には仲の良い友人がいました。その友人は祖師枝さんに受けたことのない優しさと友情を与えました。彼は大いに喜び、打ち震えましたが、友人の行動や言葉に一喜一憂することになりました。そして振り回されているのではなく、振りまわっている自分を心地よく感じ、他者にその関係を見せつけました。ある時友人が祖師枝さんについて、ひどく罵ることがありました。彼はまったくついていけずに、友人が去る姿を目で追うことしかできませんでした。祖師枝さんは家に帰り、冷静になるに連れ、だんだんと腹が立っていきました。そして自分を慰めました。あいつなんて、くだらない学生じゃないか、顔だちも別に綺麗ではないし、偏食だし、兄弟は後者は馬鹿で、両親もどうしようもない仕事しているに決まっている、そんな何も持っていない自分に何の見返りもないやつじゃないかと考えて、我を取り戻しました。後者は小学生の時、仲良しの幼馴染に犬の糞を投げつけられたときに発現しました。

 何かをしたいのに、何もできない昼下がりがいくつもありました。そういう時彼は染みついたベッドに横たわり、スマートフォンで好きなことについて調べました。一つの好きなことに興味がなくなると、ブラウザを閉じ、また思いついたようにブラウザを立ち上げました。自分が同じことを繰り返していることに彼は気付きますが、それが目的でもありました。彼は好奇心を満たすように何でも調べ見て感じ学び、時折窓から視界に入る日光と鳥の鳴き声を時計代わりに、自分の至上命題が囁き始める時を待ちました。

 それらが何順もして、昼下がりが何度も巡って、知らないことやよくわからないことが指数関数的に増え始めたどこかの連続性の中で、彼は自分の持つイメージと現実に隔たりがあることに気付きました。彼をじわじわと絶望が襲いましたが、すべてを侵食する前に、汚染された意識回路を切り離して対処しました。そのために彼は普段飲まない酒を飲み、タバコを吸い、自分に足りないものについて冷静に考えました。彼は考えた結果、それは高貴な魂であることが分かりました。あらゆる結果と判断を迂遠さと婉曲さで回避し邪推し、無駄な深読みと虚無的生活を肯定する性格が生み出した、人々と同じような連続性に生きられないシークエンスの獣である彼が唯一、独力で辿り着いた真理でした。彼は世界を旅したいと考えながら定住を望み、人々を災害から救いたいと考えながらも悲劇的なニュースから目を背け、人に愛されたいけれども人を理解せず、タフな人間に憧れるもそれを避け、自分を見失わないことが大切と知りながらも、何もかも見失っている自分こそが至高である、というちぐはぐさを自分が持っていることに到達しました。その玉座は空席であり、髑髏で出来ていました。彼は震えながら雑種の飼い犬を撫でます。雑種の老犬は幸運にちなんだ名前をしていました。祖師枝さんの妹が名付けたのです。かつて犬は元気に走り回って彼と妹はそれをよく追い掛け回していました。ある時から彼は昔、妹があまりにも自分と乖離した性格の持ち主であることが気に入らず、ことあることに蹴りました。それを嫌がった妹はある日彼の前から姿を消しました。親だけが妹の居場所を知っています。それを何度も思い出し、昼下がりを忘れようと時計を見ると十四時半でした。 

 しばらくすると彼は落ち着きベッドに寝転がるとSNSを見始めました。去った友人や分かれた彼女、ひどいこと言ってしまった妹のアカウントを探しました。IPアドレスと映像と画像の向こう側に彼らはいました。去った友人はダンスサークルで活躍し何人もの友人に囲まれて、高評価ボタンが無数に押されていました。昔の彼女は定まった仕事に就き、着実に成果を出していました。来年に本を出す予定で老若男女問わずに頼りにされ、頭脳明晰な文章を書いていました。妹は家族にプレゼントするつもりだ、と華やかな画像を上げていました。祖師枝さんは時計を見ようとしましたが止めました。代わりに犬を撫でようと呼びましたが、よぼよぼの犬は台所で痙攣していました。彼は犬の名前を呼び、駆け寄りましたが、漏らした糞尿の匂いにえずき近寄れませんでした。老犬は白濁した目を何度かぱちぱちとしばたかせ、やがて目をつむりました。祖師枝さんは何もできず、スマートフォンでその様子を撮影し、犬の葬儀についてGoogleで調べました。近所で人と一緒に犬の葬儀も執り行っている場所を見つけて安堵しましたが、そこまで犬をどうやって持っていけばいいか分かりませんでした。分かりませんでした、分かりませんでした。

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