ありていに言えば

 ありていに言えば、フォスターは不幸だったのだ。彼は救いを求め、彼女は救いを与えた。それ以上でもそれ以下でもない。
 フォスターの一日の大体のスケジュールは決まっている。朝目を覚まし、(人はそれを昼と呼ぶが)必ずコーンフレークを食べ、そして「何か」をするのである。再び夢を見たり、職を探したり、サボテンに水をやる事などだ。フォスターは人を惹き付けるものを何も持っていない。顔は公園の砂のようにざらついていて、その起伏はいたって平凡だった。何をやらせても十人並みで、強いて言うならばサーフィンがうまかったが、それも今では物置で、ストーブや扇風機と共に朝も夜も知らず眠っている。
 ある日の事だった。フォスターは買い物をする為に外に出た。生活が一周して食料や日常品が切れたからだ。久しぶりに玄関のドアを開けると、風がゆっくりとそよいだ。ついこの間外出した時は、生暖かったそれだが、今感じているのはペパーミントに近く、恋人に愛撫されているように心地よい。彼は「イン・ザ・ムード」をくちずさみ始めた。
 近くのマーケットに着くと、慣れた手付きでカゴに品物を入れた。牛乳、ソーセージ、ジャガイモ、コーンフレーク、シェービングクリーム、トイレットペーパーを買った。レジで会計を済ませていると、若干場違いな光景が彼の目をかすった。十歳くらいの少女がアイスクリームのボックスの前で佇んでいる。そしてその少女は何から何まで白かった。肌は張があってみずみずしく、ビスクドールのように物静かだ。メラニンの欠乏だけでは説明出来ない程冷たい美しさを湛えている白髪。さらに着ている服は白いファーコートなので、彼女の体の中で白くない部分は目と心ぐらいだった。フォスターは話しかける。
 「ママとはぐれたのかい?」彼女は彼に横顔を見せながら言った。「アイスが食べてみたいわ」ボックスを指差す。「これ」
フォスターは思案した。確かに彼の財布にはまだ幾ばくかの余裕はあった。しかしそれは彼が持っている全ての金だったし、残りの数日をそれで過ごすとなると、いくら鈍感な彼でも、流石に不安を覚えるのだ。財布は身のほどをわきまえない。『見よ、これは新しいことだ』
 結局彼はアイスクリームを買った。それをレジに持って行くと、中年の女の店員がぎょろ、っとその大きな目でフォスターと少女をせわしなく見比べ、「可愛らしいお嬢さんだこと!」とがまがえるみたいに笑い、「911」と言った。「いい事、911よ?」アイスクリームにしては高価過ぎたが、彼は早くこの場から去りたかったので、フォスターは口だけで愛想笑いを浮かべ、さっさと勘定を払い、少女の手を握り足早に去った。

 今彼らはフォスターのアパートの近くにある公園に座っている。少女はアイスクリームにすっかり夢中だった。彼はポケットからタバコを取り出そうとしたが、少女の横顔を見ている内に、何故だかそん気が失せてしまった。タバコを握り潰す。風が吹く。フォスターは尋ねる。「なぁ、君のことはなんて呼べばいい?」彼女はその言葉を舌の上で転がし、「アイス」と言った。
「アイス」フォスターは少し考えた。「アイス」偽名かもしれない。しかし、幼い少女が果たして偽名など使うだろうか。いずれにしろ、それはよく彼女に似合っていた。彼はしばらく黙ることにした。アイスは舌を動かしながら黙った。黙っている。風が吹く。木が揺れる。葉が落ちる。ちょうど木の下には若い母親がいて、赤ん坊をベビーカーに乗せていた。落ちていく葉がちょうど赤ん坊の鼻の上に、静かにのった。心地よい昼寝を邪魔されれば誰でも怒る。赤ん坊は泣いた。世の中の不条理に対して彼は泣いているのだ。友達と騒がしく話していた若い母親は、赤ん坊に話しを遮られ、かんかんに怒り、赤ん坊の頬をつねり上げる。友達がそれを見て笑う。赤ん坊は泣き喚く。フォスターは顔をしかめる。
「もう行くからね」彼はアイスに顔を向けた。「アイスクリームはおいしかった?」アイスは横顔を見せている。「やれやれ」と苦笑し、タバコを一本取り出した。「さようなら。お嬢さん」彼はベンチから離れて行った。アイスはベンチに深く腰掛け前髪の間から赤ん坊を見ている。風は吹かなかった。

 フォスターは家に帰りシャワーを浴びた。風呂には入らない。彼は髪と一緒に断片的な記憶を洗っていた。サボテン。テキーラ。そういえば最近酒を飲んでいない。白くなる。腹が減った。ソーセージ。がまがえる。しばらくあの店には行き辛くなる。溜め息が彼の濡れた唇を揺さぶり、水が滴り落ちた。その時唐突に中学校にいた数学の先生を思い出した。若く、ウィットに富んでいて、ジョークもなかなか面白い人だったが、女生徒と関係を持ち退職した。彼は今どこで何をしているのだろう?フォスターはそう思い、水を被った。流れ落ちる。
 シャワーを浴びた後、彼はまず最初にビールを飲んだ。次に買ってきた好物のソーセージを鍋に放り込みゆで始めた。なんとも言えない香りが鼻の奥に広がる。彼はこの匂いが好きだった。ソーセージはゆで過ぎても、そうでなくてもいけない。四~六の間なのだ。香りも違うし味も違う。ソーセージは人生だ、と言うのが彼のささやかな持論だった。彼は待っている間、KISSの「Beth」を鼻で歌っていた。しばらくしてそれが終わる頃、ソーセージはちょうど良くなった。火を消し、慣れた手付きで鍋から取り出し、四年前ビンゴゲームで当てた皿に盛った。フォークを用意し、ソファーの前の小さなテーブルまで運んで、TVをオンにした。適当にチャンネルを変えていくと、ボクシングの試合が中継されていた。ナジーム・ハメドが出場しているようなので、フォスターは観ることにした。
 しかし既に玄関のベルは鳴っていた。それは四~六の間からだった。刺すようになるベルは、しかし無意味。フォスターはビールとソーセージとナジーム・ハメドの試合に夢中。彼は、キャビアと女と、気のきいたふかふかのベッドがあれば最高なのに、と思っていた。ベルは鳴り続ける。ナジーム・ハメドは相手を挑発し続ける。フォスターはビールを飲み続ける。それがCMになった時、ようやく彼はベルに気付いた。慌てて洗いざらしたジーンズを履き、「ちょっと待ってくれ!」黒いノースリーブを着て、「今行くから!」タバコに火を付けた。「どちらさん?」ドアを開ける。

「ハロウ」とアイスが言った。「もう忘れてしまったのかと思ったわ」彼女の頭上にタバコの煙が行き場を失って漂っている。「おいおいまだ帰ってなかったのか。家が分からないのかい?」フォスターはくわえていたタバコを口から離した。「それになんでここが分かったんだ?」つまらなそうにアイスは言った。「どうだっていいじゃないそんなこと」そんなことより、と彼女は続ける。「早く中に入れて頂戴な。知ってた?夜って寒いのよ?」何か言おうとしたフォスターを押し退け、彼女は彼の家の中に入って来た。
「カビくさい部屋ね」入るなりアイスはそう言った。「鼻が曲がりそう」
「なぁ、ちょっと待てよお嬢ちゃん」フォスターは頭を抱えてながら言った。完全に動揺していた。そのざらついた顔の奥でいかに考えようとも、彼はこの状況を把握出来なかった。空き地の雑草のように、とめどなく生えてくる疑問を彼は処理出来ず、ぎりぎりで一番背の高い草が、彼の口から飛び出した。「僕は一人暮らしなんだぜ」アイスはそれに、ふんと鼻を鳴らし、リビングへと進み「プレイボーイ」がぺしゃんこになった椅子に座った。
「ねぇ私胃の中が空っぽなんだけど」白い髪をいじりながら言った。「なんだって?」フォスターは耳を疑った。「お な か が 空 い た の」とアイスは自分の腹をさすって見せた。「この家は幼稚園なのかしら」フォスターはその言葉にかなりムッとしたが、「コーンフレークでいいなら」とようやく言った。
「コーンフレーク?」信じられない、という様子だった。「ねぇ知ってた?あれは家畜が食べるものよ」
「僕が何を食べようと勝手だろ!」フォスターは怒鳴った。「それより早く出て行ってくれよ!」アイスは耳をパイプにしてそれをやり過ごしていたが、ソファーの前のテーブルを見て、少し目を輝かせた。「ソーセージがあるじゃない」そう言って手を伸ばす。
「おいやめろ!」慌てて彼はソーセージを盛った皿を取り上げた。「これは僕のソーセージだ!」その様子をアイスはきょとん、としばらく眺めていたが、やがて、「こどもみたい」とクスクス笑った。フォスターは耳まで真っ赤になる。

 フォスターはかなり頭に来ていた。それでもなんとか踏みとどまっていたのは、相手がまだ子供だという事と、幼稚なプライドのおかげだった。「迷子なんだろう?電話をかけていいからそこのを使えよ」と猫撫で声で言った。「ふぅん……」とアイスは何やらしばらく考えていたが、すぐにTVの上にひっそりと置かれている電話を掴み、番号を押し始めた。
 フォスターはいささか安心した。すると途端に彼の下半身を違和感が襲った。「僕はちょっと便所に行って来るから」

 幾分すっきりしてトイレからフォスターが戻ると、ちょうどアイスが電話をガチャンと切ったところだった。
「シャワー使うわよ」なんの脈絡も無くそう言った。
「なんでシャワーをぼくの家で浴びる必要があるのかな?」彼は震える手でタバコを取り出した。アイスはお構い無しにシャワールームに入って行った。我慢だ、彼はそう自分に言い聞かせた。もう少しであの子は帰る、それまでの辛抱さ、と自分に言い聞かせた。

 アイスがシャワーから出てくると、フォスターはあんぐりと口を開いた。なぜなら彼女の着ている、「服なるもの」が見事に透けていたからである。乳首やら、へそやら、陰部やらが全て露出している。
「おいおい!」と彼は慌てて両手を目の前にかざし、きょろきょろと周りを見渡した。「なにしやがる!服を着ろ!」
「着てるじゃない」涼しい顔でアイスは言った。「それにこっちの方が涼しいわ」
 フォスターひどく困った。彼はそんな趣味を持ち合わせていなかったし、ナボコフの小説だって一度として読んだ事は無いのだ。
「いいから早く服を着るんだ!」なるべくアイスを見ないようにしながら、彼は毛布を押し付けようとした。「いやよ」アイスは身をよじらせてそれを避ける。「そんな事言ってられないだろう!」怒鳴る。「止めて」とアイスは急に青ざめた顔で言った。その態度に、とうとう彼の堪忍袋が破裂した。「お前がいけないのに!」アイスの細い肩を乱暴に掴んだ。「いったいなんだっていうんだ!」そして彼女を一度、強く揺する。
「助けて!」彼女は悲痛に聞こえる叫び声を上げた。「この人最低よ!」
 フォスターはアイスを黙らせようと手を上げた。だがそれは彼の後頭部を強打する、警棒によって遮られた。フォスターは一瞬意識を失って床に勢い良く倒れ込み、額と鼻ををしたたかに打ち付けた。額がぱっくりと割れ、鼻血がでる。
 「このクズ野郎!」太った中年の男が彼を罵った。「くたばりやがれ!」そう言って厚いブーツをフォスターの腹に叩き込んだ。「てめぇみたいなろくでなしがいるから世の中が腐るんだ!」フォスターはうめき声を上げた。
 「ほらこのとおり!」とあのがまがえるの店員が、体を揺らしながら入って来た。「やっぱりその子を誘拐したのね!吐き気がするわ!」女店員はぺッ、とフォスターに唾を吐きかけた。「このろくでなし、その天使みたいな子供を連れて歩き周っていたのよ!」
 「畜生が!」それ以外にも散々酷い言葉をフォスターに浴びせ、太った警官は彼を散々にぶちのめした。
 フォスターが何も言えなくなった後、太った警官は優しげにアイスに毛布を被せた。「良く通報してくれたね。辛かったろう。こっちにおいで」と言った。「通報したのはあたしよ!」と女店員がヒステリックに叫んだ。「やっぱり電話番号を教えておいて良かったわ!」女は興奮して涎を垂らしていた。「お手柄ですよマダム」近い内に表彰されるでしょう、と警官が言うと女は狂い死にしそうなぐらい喜んだ。
 アイスが警官に連れられ、ぼろぼろになったフォスターの側を通る時、彼女は微笑みながら、彼にそっと耳打ちした。
「アイスクリームおいしかったわよ」
 アイスクリームはとけずに去った。

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