「分からなくていい優しさ」が欲しいなら、本を読み創作をしよう。



私は、まぁ、人よりか、いくらか読書が好きだ。

学生時代は教師に少しは目をかけられるくらいは読んでいた。国語の授業も好きだった。授業で取り扱わない、別ページの小説ばっかり読んでた。よくいるやつだ。

授業中にノートを取りながら、別のノートに小説を書いたりしてた。ちなみに会社ではalt+tabで画面を切り替えながらメモ帳に小説打ち込んだりしている。わるいやつだ。

話がそれた。まあ色々本を読んでいたわけだ。そこそこには。

ただ私はそこに書いてある内容を理解していたとは言えない。
国語の点数もあんまよくなかった。平均点より2,3点上なくらい。
私は文芸部の部長をしていたことがあったけど、全世代の中で一番国語ができなかった。周りのやつは軒並み90点とかだったからね。諦めたわ。

私には不思議だった。
なんで私は会話の機微が分からなくて、テストの点も普通で、小説に書かれたことを理解できないのに、こんなに本が好きなんだろう。いや、ほんとは好きなのかもよく分からない。

なんでだろう。

なんでだろうね。

今でもよく分からない。すごくありふれた理由なのかもしれないけど、思い当たらない。分からない。

何もかも分からないことばかりだ。

しかし世の中にはなんでも分かるやつがいる。少なくとも自分より。
そんな相手を無条件で尊敬してしまうのだが、同時に自分を貶めて卑屈になる。

それを客観して理解できるようになったのが最近だ。それは良くないことだし、おろかだ。

話がそれた。

特に現時点で表題に対する答えはない。すまんな。
相も変わらず世の中は理解不能で、私のキャパシティを超えてくる。分からないことしかない。

もしかしたら僕のとって小説は、「分からない優しさが許される」から安心するのかもしれない。

分からなくても誰にも責められず、ゆっくりと想像の余地を与えてくれる。自分の部屋のように自由だ。

判断がつかない。知識がない。理解力がない。会議の文脈が追えない。
色々あるよね。

もしあなたが、世の中が理解不能で、そいつらに責め立てられていると感じるなら、本を読み創作するといいかもしれない。そこではあなたの余地を誰も邪魔しない。焦らせる人も、嗤う人もいない。一人だが、独りじゃない。あなたは分からないと感じるとき、既に自由だ。

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