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「3人のレンガ職人」について思うこと

「3人のレンガ職人」という話を聞いたことがあるだろうか。

作業をしているレンガ職人に「あなたは何をしているのか?」と尋ねると各々こう答えたという。
 
職人A 「私はレンガを積んでいる」
職人B 「私は壁を作っている」
職人C 「私は後世に残る教会を作っている」


 ビジネス書やビジネスセミナーなんかでは、この逸話を引いて「単純な作業でも志をもって取り組むことが素晴らしい仕事を生むのだ」といったオチがつく。
 
この逸話が言わんとすることには同意するばかりなのだが、私はすべてのレンガ職人がそんな気持ちで毎日レンガを積み続けることはできない、と思ってしまう。特に若手のレンガ職人は。
 
「これはただレンガを積んでいるのではない、教会を作っているのだ」と説いて「ああ、俺は教会を作っているのだ。」と素直に思い込めた職人は幸せである。
 
だが「教会がなんチャラとか言ってるけど、結局レンガ積みはレンガ積みじゃん」とツッコミを入れてしまう斜に構えた職人はどうすれば良いだろうか。
 
私は新卒で入社した日系電機メーカーに勤めて6年になる。

事務系総合職で入社した新人になぜうちの会社に入ったのかと聞くと、「社会に貢献と思ったから」とか「グローバルに活躍したいから」といった答えが返ってくることが多い。
 
たしかに私が勤める会社が手掛ける製品やプロジェクトは、社会的に大きな意味・意義を持っているだろうし、また、海外にも広く事業を展開しており、海外出張や海外駐在といった機会も比較的豊富にある。
 
しかし、そうした事業の大きさや広がりに対して、自分の目の前にある仕事の小ささにギャップを感じて、そのギャップを埋められないまま、入社2-3年で会社を去っていった同期や若手社員は多い。
 

大規模な事業にたずさわるといっても、自分の仕事は伝票処理やクレーム対応、長時間の社内会議とそのための社内資料作り、計数の取りまとめ・・・といった業務ばかり。
 
目の前の業務に忙殺されて、その先にある教会を思い浮かべることなど出来ない。そして、いつしか就活時に抱いたモチベーションはすり減っていく。
 
私たちは仕事に「意味」を求めている。
それは社会とか、上司にとっての意味ではなくて、私にとっての「意味」だ。
 

はじめから社会とか世界とか大きすぎる「意味」を実感するのは難しすぎる。
 
まずは自分にとっての成長や面白さ、人とのつながり、金銭的な報酬など、自分の感情にダイレクトに響く「手ごたえ」があって、その後にもっと大きな意味に気づけるのだと思う。
 
「そんな甘えたこと言ってないでとにかくやるんだ、そうすればおのずと見えてくるんだよ」という主張はあるで意味正しい。
 
しかし、「そんな甘えたこと」の部分に注意を払わないと、人の心は掴めない時代になってきている。

実際に「より意味を感じることができる」仕事や業界にどんどん人が流れていっている。
 
自分と世界を結ぶのは、「私」しかありえない。

でも、そのための補助線を上司や先輩もっと若手や部下に与えてあげるべきだ。

私たちは「レンガ積み」と「教会」の間について考える必要がある。

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