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サトリ、サトラレる時代に生きる僕らは

15年くらい前に『サトラレ』という漫画・ドラマがあったことをふと思い出したが、SNS全盛のいま、私たちは現実に『サトラレ』に近い世界を生きているのかもしれない。


 「サトラレ」とは、あらゆる思考が思念波となって周囲に伝播してしまう症状を示す架空の病名またはその患者をさす。正式名称は「先天性R型脳梁変成症」。サトラレは、例外なく国益に関わるほどの天才であるが、本人に告知すれば全ての思考を周囲に知られる苦痛から精神崩壊を招いてしまうため、日本ではサトラレ対策委員会なる組織が保護している、というのが物語の基本構造となっている。映画『トゥルーマン・ショー』に強く影響されているものの、単なる真似ではなく、サトラレという設定を持ち込み、物語にバランスと展開性を成り立たせている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%AC



『サトラレ』では本人の思考が本人の意思に関係なく周囲に全て漏れてしまうということでSNSとは大きく異なる。

しかし、私たちはいまではTwitterやInstagram、Facebook、noteで自分が見たことや感じたことや、考えたことを瞬時に世界中に発信できる。

(『サトラレ』においては、本人の思考が周囲に伝わるのは数十m~数㎞というという設定だったが、私たちの世界では4万km先まで瞬時に意思を伝えることが出来るので、ある意味で『サトラレ』の設定を超えている。)
 
これまで長い間、自分の考えや意見を周囲に広く伝えることが出来る人というのは限られていた。それは政治家であり、新聞記者、大学教授、小説家、アナウンサー、経営者であった。

いずれにせよ考えを発信するというのは、専門的なスキルや知識、権力を持った特別な人たちにだけに許された特権的な力だった。
 
それが今ではテクノロジーの力によってだれもが次の瞬間には何万、何百万の人への発信力を持つ「インフルエンサー」となる可能性が開かれている。
 
『サトラレ』では、サトラレ(=頭に浮かんだことがすべて周囲に筒抜けになってしまう特質を持った人々)の中に、心を病んでしまう人が登場する。

彼らは密かに持つ性癖や残虐性や悪意が周囲にすべて伝わってしまうという事実にたえきれなくなってしまうのだ。
 
私たちのだれもが人には言えない秘密の性癖や空想、妄想を1つや2つ持っているだろう。それらが全て周りの人に知られてしまっては恥ずかしくて耐え切れないだろう。

幸いにも私たちは、そうした思考を自らの心のうちに留め実際に行動に移さない限りは問題にはならない。

私たちはそんな恥しいことはSNSに投稿しなければいいのだ。
 
しかし、この「SNSに投稿しない方が良い」という基準が実はとても難しい。
 
自分と自分の周りの人々の間では「普通」とか「当たり前」と思っていたことが、ある人にとっては不快に思ったり、気に食わなかったり、差別や中傷につながることがたくさんある。
 
これまでだったらお互いに出会うことのなかった人たちが、SNSという広場におどり出て、好き勝手に喋りはじめたから、いたるところでぶつかって摩擦が生じている。

そして、どこかで煙があがると、行き場を失ったたくさんの不満が野次馬のように即座に集まりその場が大炎上することになる。
 
意見の衝突はストレスであり、体力を消費し心をすり減らす。だから、人はなるべく衝突を避け、なるべく乗りの合う人たちが集まる。それがブロックという行為であり、またネット上に生まれているたくさんのコミュニティなのだろう。

これはとても自然な流れだと思う。
 
では、このさきSNSの世界に残るはそれぞれが自分たちのコミュニティ内にこもる世界なのだろうか。『サトラレ』では、サトラレの思考を受信することが出来ないサトレズといった人間も登場するが、私たちは自分と意見の異なる個人や集団との交流を遮断していくのだろうか。
 
あるいは衝突しながらも違いを認めつつ何らかのマナーやルールを形成しながら、意見の交流が続くのか。

正直なところ、私にはまだよくわからない。
 
けれども私はどちらかといえば後者であると思っている。なぜなら、人はシーソーのように「つながりたい」と「一人になりたい」の間をいつも揺れながらも、やっぱり「つながりたい」に傾くと思うから。
 
にぎやかなSNSの世界がこれからも続いていくと良いなと、noteの片隅で思っている。

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