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合鍵

「あーそれもう使わないから捨てていいよ」

電話越しに聞こえる彼の声は久しぶりにも関わらず、違和感なく私の日常に溶け込んでいた。

大学1年生の時に出会った彼と別れたのは3ヶ月ほど前。

付き合ってから2年目の記念日のことだった。

理由は特別なものではない。

授業とかバイトの都合でなかなか会えなかったり、連絡の頻度が減ったり、性的な感情が合わなくなったり。

そんなお互いのちょっとした気持ちのすれ違いが、少しずつ大きなものになっていたからだ。

「新しい鍵買ったの?」

私は手の平の上で今は使うことのなくなった彼の部屋の合鍵を泳がせながら問いかける。

「いや、ちょっと前に引っ越したんだ。もう別の人が住んでる」

だからもうその鍵使えないんだと彼は言った。

「そっか」とだけ小さく呟きながら、明大前の狭くて汚い1Kの部屋を思い返した。

昔から物とか場所への愛着が強くて、自分の部屋では無いけれど頻繁に通っていたあの部屋がもう知らない誰かのものになってしまっていることが酷く寂しく思えた。

「用事それだけだった?」
iPhoneの向こう側で、彼は何やら物音を立てながら動いている。

「あ、うん。ごめんね忙しいのに」
どこに引っ越したの?と聞こうか迷って一瞬言葉になりかけたが、音になる前に飲み込んだ。

「大丈夫だよ。じゃあまた」
「うん、また」

短い挨拶をして電話を切った。

彼の声が消えた室内は、慣れてきたはずなのに憂鬱の溜まった空虚な空間に思えてため息が出る。

もう2度と使うことが出来なくなってしまった合鍵が、私の手の中で未だに私と彼が繋がっていた証として残っている。

その鍵穴のついた扉は、二度と開くことはないのだけれど。

彼と別れたことにさほど未練は感じないのだけれど、鍵を見るたびに彼の部屋の匂いが鼻腔をくすぐり、眠そうに起きる彼の顔がチラついた。

理由のない寂しさと孤独感がいつまでも彼を忘れさせてくれなかった。

「こんなことなら別れた日に合鍵返しておけば良かったな」
わざと自分に聞こえるように、少しだけ大きな声で呟いた。

ボロボロのアパートだった割に部屋の鍵だけはアンティークで可愛いらしくて、愛着を持ってしまったのがいけなかったのだろう。

手放すのが名残惜しくて、3ヶ月も手元に置いてしまっていた。

いつまでも彼を忘れられない自分に嫌気が差して、漸く手放す決心をしたというのに。

この鍵はもうどこにも居場所がなくなっていた。

なんだか私みたいだ。

そう思っているとますます愛着が湧いてしまう。

きっと捨てられないんだろうな、鍵も思い出も。

私はお気に入りの小物たちが並ぶ棚の上に、合鍵を置いた。

部屋の家具が一つ増えると同時に、忘れられない人が一人増えた。

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