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「つまらないままの貴方でいてね」

桜の花みたいな寂しさを纏う人だった。

大学一年生になったばかりのある春の日のこと。

田舎から上京して初めての一人暮らしで、慣れない環境での生活によるストレスで積もった心細さを埋め合わせるみたいに、急かして作った友人に誘われるがままに、私はサークルの新歓に参加した。

その空間は、私が生きてきた十八年という時間の中には存在したことのない居心地の悪さで、同じサークルだからと気安く肩を抱いてきたり、連絡先を交換しようと迫ってきたりする先輩たちに嫌気がさし、心の拠り所を見つけるどころか、時間が経つにつれて逃げ出したくなる一方だった。

そんな夜に、私は彼を見つけた。

座敷の端っこの方で周りの空気に流されながら取り繕った苦笑いを浮かべる彼の横顔は、散り際の桜を見ているようで、不思議と自分に重ね合わせてしまった。

「隣いいですか?」突然声をかけた私に彼は少し驚いた表情をしたけど、「あ、どうぞ」と席を促してくれる。

「いきなりごめんなさい。もしかしてだけど、上京してきたばっかりですか?」

私がそう尋ねると、彼は「え、なんで分かったの?」と固まっていた表情を緩めてくれた。

「やっぱり! なんかそんな気がしたの!」

バレちゃったかと彼は頭を掻く仕草をしながら「俺そんなに田舎臭かったかなぁ」と照れたように笑う。

「いやそうじゃなくて! 失礼かもしれないんやけど、ちょっと私と似てる気がして…」

「似てる?」

「なんとなく、東京に染まりきれてない感じとか」

「はははっ! 確かにそうかも」控えめながら彼は声に出して笑った。

彼は愛知県の田舎町の出身で、高校時代は鹿とか熊が出るような山道を毎日自転車で一時間かけて通っていたらしい。

偶然にも私は隣の岐阜県出身で、同じく猿とか猪が校庭を走り回っているような田舎で一八年暮らしていた。幼少期から中日ドラゴンズのファンで、好きな選手は私が井端で彼が荒木。彼の部活はもちろん野球部で、私は野球部のマネージャーだった。

同じような境遇で育ってきた私たちの共通点は話す時間に比例して増えていき、どこまでも似たもの同士のような錯覚を覚えるほどだった。

「じゃあ俺たち田舎同盟だね」そう言って笑う彼を見て、東京にきてから初めて安心できるものを見つけたような気がした。

そこから私たちの関係の進展は早かった。新歓のあと二人で抜け出して深夜までやってるファミレスで終電ギリギリまで地元トークで盛り上がり、LINEを交換した。

その次の週には二人で浅草に出かけて、メンチカツを食べて人力車に乗った。初めて間近でみたスカイツリーは思っていたよりもずっと大きくて、麓で「でけぇ〜!」とはしゃぐ私たちは側から見たら恥ずかしくなるくらい田舎者丸出しだった。お金がなくて上には登れなかったけど、その日見上げたスカイツリーを、私は多分一生忘れないと思う。

私たちが恋人同士になったのは、大学生活に慣れてきた新入生が授業のサボり方を覚え始めた六月中旬頃、下手にも下手すぎる宮下公園のベンチだった。

「好きです。付き合ってください」

そんな捻りも飾り気もないストレートな告白がいかにも彼らしくて、そのつまらなさが愛おしかった。

友人としてではなく恋人として迎えた初めてのデートはお互いドがつくほど緊張していて、あれほど毎日電話で話していたのに、会話がぶつ切れで殆ど話せないまま時間が過ぎていく。

散々焦らして繋いだ手はお互いの緊張感が汗になって漏れ出ていて、あまりのぎこちなさと不格好さに耐えられなかった私が思わず吹き出すと、それに釣られて彼も笑った。

一頻り笑った後はいつもみたいに会話が弾んだから不思議だ。

その日訪れた下北沢で私たちは、恋愛の難しさと古着は気軽に買える値段ではないことを学んだ。

東京はどうやら、私達みたいな田舎者の価値観には収まらないらしい。

彼の話は他の同級生や先輩達と比べると退屈でつまらなくて刺激がなかったけど、彼の傍は誰よりも安心できて、私に東京という孤独の街で居場所をくれた。彼と出会わなければ私はきっと、この街で一人では生き抜いていけなかった。それは彼も一緒なんじゃないかと思う。

その年の夏。東京での初めてと一緒に、彼には私の初めてもあげた。

レンタカーを借りて御殿場のアウトレットへ行った帰り道、海老名のサービスエリアで買ったメロンパンを食べながら「今日うち来ない?」と彼が言った。

なんでもないことのように振る舞いながらメロンパンを頬張る彼の横顔は、夕日のせいでは言い訳できないくらい真っ赤に染まっていた。

少し散らかった六畳半の狭い部屋。
二十〇度に設定されたエアコンの冷気でも汗ばむ二人の熱気が室内を包む。

耳元に掛かる甘い息に身を捩らせながら、恥じらいとともに衣服を床に捨てた。

背中を預けるシングルベットの軋む音が心許なくて、覆いかぶさる彼の無垢な身体を抱き寄せる。

彼の背中は思いのほか大きく、その逞しさは内側から漏れ出る寂しさとは歪に乖離していた。

激しく求められるままに舌を交わせ、慣れない手つきで彼が触れていく部分が熱を帯びていくのが自分でも分かり、その羞恥から目を瞑った。

中心を突かれるたびに響く痛みも気にならないくらい、全身を襲う快感は非日常的な幸福感を育んでくれる。その優しい暴力に抗おうとせず、身を預けて支配権を彼に委ねた。

僅かな壁を隔てて伝わる彼の体温には、確かな愛を感じられた。

東京の隅っこで、都会に馴染めない私たちは互いを必要とするままに求め依存し合い、時間の流れも忘れてその快感と安堵に溺れていく。

この街で私たちは一人じゃない。痛みに似た快感と事実が、それを証明してくれていた気がした。

十九歳の夏。少しだけ背伸びをして、一歩だけ大人に近づけた夜だった。

乱れたシーツに熱が篭ったままの情けない身体を投げ出す私たち。無音の部屋に荒れた呼吸音が不規則に重なり心地よく響く。

「東京に染まらないでね」
寝返りをうつように彼に寄り添い、鍛えられたその胸に顔をうずめながら呟く。

「なんの歌詞だっけそれ」

「忘れた。多分歌詞も違うと思うよ。本当のはもう少し情緒に溢れてた気がするから」

そう言いながらまだ高揚している彼の頬に両手を当て自分の顔に引き寄せる。

「つまらないままの貴方でいてね。貴方はそれでいいんだよ」

呪いのような言葉をかけて、もう一度口づけをした。

「なにそれ」と静かに笑う彼の顔は、初めて会った日に春風に揺られていた、桜の花びらに似ていた。
 
別れたいと言われたのは、私たちが東京に来て二年の月日が流れた三月のある日だった。その日東京は季節外れの大寒波に見舞われ、長い冬を超えて芽吹いた桜の花達には白々しく雪が積もっていた。

「そっか。うん、そうだね」

今朝目が覚めてカーテンから覗く白く濁った空を見たとき、何故かそんな話をされる気がしていた。

突発的な雪でダイヤの乱れた日比谷線に揺られている時には、まだ予感でしかなかったそれは、中目黒のカフェでホットラテを飲む君の顔を見た時に確信に変わった。

すれ違い始めたのはいつからだっただろう。まだ東京に馴染めていなかったあの頃の私たちには、お互いの存在しか寄り添えるものがなくて、確かに依存しあいながらこの街で流されてしまわないように必死に生きていたはずだった。

いつのまにか私だけが、あれだけ染まれなかった東京の絵の具に染まっていて、彼以外でも居場所を見つけられるようになってしまった。

化粧を覚えて、ピアスを開けて、柄にもなく髪を巻いてみたりなんかして、露出が苦手だったのに今日はスリットの入った短めのスカートを履いている。

異性に声をかけられることだって日常になり、お酒も嗜めるようになった。その姿は、間違いなく私が望んでいた東京の大学生だった。

変わってしまった私とは違い、彼はまるで私がかけた呪いの言葉に縛られているように、出会ったころのままの姿であり続けている。

相変わらず髪は短く、お世辞にも服装はオシャレとは言えなかった。

十八歳だった私たちは、もうすぐ二十一歳になる。

自画自賛だけど私は随分可愛くなったと思う。でも何かが違った。求めていた理想の自分になれたはずなのに、大切なものが少しずつ欠落していく音がずっと聞こえている。

十八歳の私が見たら思わず憧れてしまうようなキラキラした大学生活を送れているはずなのに、もっと田舎臭くて、ダサくて、痛々しくて、お互いがいないとこの街で息をするのすら苦しかった頃、あの六畳半の部屋で過ごしていた彼との時間の方がずっと輝いて見えた。彼もきっと同じようなことを考えていたのだろう。

「ごめんね。私のせいだね」

「ううん。君のおかげで、東京は寂しくなかったよ」

東京で始まった初めての恋は、私のせいでこんなにもあっさり終わってしまった。もう戻ることに出来ない若葉のような思い出だけを残して。

改札で彼を見送ったあと、少し寄り道をしてまだ雪がチラチラと舞う目黒川沿いを歩いた。

有線イヤフォンを耳に挿して、高校生の時自転車で通学していた際によく聞いていたプレイリストを選んで再生した。

偶然選ばれたのは木綿のハンカチーフ。

「ただ都会の絵の具に染まらないで帰って」と歌う女性歌手の声は、優しく包んでくれるようでもあり、染まってしまった私を責めるみたいでもあった。

ふと目の前に薄桃色の花びらが落ちてきた。

掴もうとしたけどヒラヒラと揺れる桜の花は手に収められず、溶けた雪で湿った道路に落ちてしまう。

意図せずこぼれそうになった何かを抑えるために見上げた頭上には、こんな日でも桜が綺麗に咲いていた。

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