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金魚の糞 ~古の峠を辿る山行記録~

飛騨は どっちを むいても 山ばかり。
田んぼが ないから こめがとれない。
飛騨の人びとは、白いこめを
手にいれるために じぶんのうまを
富山へ はたらきにだす。

 

こぶしの花さくころ 若谷和子作・井口文秀絵

   1

 これは「こぶしの花さくころ」という1982年に出版された絵本の冒頭部分。
 こぶし(辛夷)はモクレン科の落葉広葉樹で、飛騨では庭木によく植えられており、四月に白い大きな花を咲かせる。そして昭和三十年頃までその時期には、田を耕す目的で、農耕馬を富山へ出稼ぎに出す「作馬」と呼ばれる制度があり、この絵本には当時の馬と人と自然とのかかわり合いが描かれている。
 ひとくちに飛騨地方と言ってもその範囲は広く、作馬を行っていたのは県境の現岐阜県飛騨市神岡町山之村。この山之村という地域はその名の通り山深く、雪深く、飛騨人にとってもある特別な感情を抱く地域ではなかろうか。現在7つある集落の総称が山之村ということで、その名は地名ではない。現在という断りを入れたのは、過去にいくつもの消滅した集落があるからで、そこを徒歩で行き来した道や峠もまた忘れられてゆく存在である。今や藪に覆われ、かつて人と馬とが生きてゆくために歩み続けた峠道の痕跡が、風雪と共に消えゆく様はまさしくロマンであり、その足跡を辿ることに魅せられてしまった連中がいた。
 そう、諌山、クーロワール髙田、石見堂、そして私の四人は、思えば山中でたまたま偶然知り合った悪友同志なのだが、男のロマンを求めて「こぶしの花さくころ」の青木峠へと向かうこととなった。行程は以下の通り。
 
 神岡町下之本の手前、打保谷川右岸に沿って下流に向かう林道がある。この林道の先に青木峠と呼ばれる古の古道がある。峠までは現在の国土地理院地図にも出ているのだが、そこから先、佐古の集落の下、跡津川と打保谷川の合流点あたりまでは昭和四十七年までの地図にしか記載がない。つまり、もう五十年以上前から道として公に認められていないところを好き好んでたどるという酔狂な計画である。
 
   
              
 山行2日目の2023年5月21日午前。
 我々は青木峠を後にして佐古集落方面に向かい一路、否、道なき道を芋虫のような速度で脚を取られながら進んだり戻ったりしていた。いや、昨晩焚火の薪の中から逃げ遅れて出てきた芋虫の方が速いのではないかとすら思った。
「なんや、本気出せば速いんやねえけ」
 道などあったものではない。無秩序に伸び放題の笹、黒文字漉油の類の灌木が縦横無尽にはびこり行く手を阻み、さらに倒木が絶妙な高さでバリケードを築いている。まるで避けることが絶対不可能なアンブレラ社のレーザー攻撃※のようだ。それを鉈とか鋸とか斧とかを狂人のように振り回してブッた切り、進路を確保する。

※映画「バイオハザード」でアンブレラ社内に侵入した特殊部隊が切り刻まれた網の目状のレーザービーム。避けることは非常に困難。

 等高線上をたどるから水平移動で登らないから楽などという考え方は一瞬で粉砕された。かつて道があったとはいえ、昭和三十年台までの話なのだから、とっくの昔に自然に回帰しており、もちろん地面が平らなはずはなく、ただの急斜面トラバースが延々と続き、所によっては「へつり」状態なのだ。すぐに足首がおかしくなり、ズルズルと滑る泥、岩、笹の茎、浮石、その直下のフォールラインは奈落の底で、まるで生きた心地がしない。フリークライミングをやっていたのだとか豪語するのだが、アレはロープとボルトで確保されているから偉そうに自慢できるだけであって、フリーソロをやる頭のイカれた連中とは根本的に違うのだ。
 だが、本当の山屋はそういうイカれた連中であることを私は知っている。事実ビビッてまごまごしてなかなか進まない私を尻目に、諌山と石見堂の二人は何事もなかったようにさっさと行ってしまった。奴らはヘンタイなのだ。

 おそろしい なだれのあとを こすときは
 ふかいゆきの かたまりを わけてすすむ
 もし、川にすべり おちたら、いのちはない

 絵本の描写は全くそのまんまだ。
 人の往来があったその時代ですら、馬が谷底に転落して供養碑が建っているくらいの危険極まりない峠なのだ。そんなのが放置されたまま50何年も経っていれば、おおよそどんな処か想像できたはずなのに。
 そう言えば、セブンエーの山岳保険もだいぶ前に切れたまんまだ。
 このまま滑落して岩にアタマを打ち付け気絶し大滝からドボンと落ちて神通川を下り富山湾でブリにつつかれるのだろうか。
 あるいは中途半端なところで引っかかったまま両足骨折とかで痛みに耐えながら二晩目くらいにようやく遭難対策協議会が来て搬出出来ないからヘリが来てホイストで吊られて病院に運ばれて何百万とか何千万とか請求が来て新聞とかニュースとか市民時報とかに出ちゃって全財産も信用も失って家族は路頭に迷って子どもはいじめられて会社はクビになり結局川上川出発の神通川から富山湾なのかなあ。
 いやいや、それだけは絶対に避けなければならない。
 ヘンタイ連中に遅いとかチキンとか言われようが、絶対にケガだけは避けねばならない。
 以降、私は石橋を玄能で叩いて渡る戦法に作戦変更をした。

 実は急斜面トラバースには過去に苦い経験がある。
 いつだったか、まだ若い頃クーロワール髙田とスキーで正月の北ノ俣岳を目指した。
 準備は万全で、秋のうちに避難小屋まで食料酒その他をデポしておく周到ぶりだ。
 年末二十九日に出発、林道を五時間ラッセルしてようやく神岡新道の取りつきに到達し、そこから少し登ったところでビバーグした。
 翌日も深いラッセルで辟易した我々は、中継地点である寺地山ピークに登るのを諦めてショートカットのトラバースという暴挙に出た。何せスキーを外すと胸までストンと埋まるほどの深雪なのだ。
 トラバースを始めてすぐに気が付いたことは、相当登り気味に進まないと同じ高度を全く維持できないことだ。前に出す脚を渾身の力を込めてエイヤと振り上げても、後ろの脚より低い位置にズボリと沈み込む。こんなことなら寺地山を直登した方がマシなんじゃないかと思っていたら深い谷が出現した。クーロワール髙田が谷に降りて行った。私もそれに続こうとしたその時、脚を取られて転倒した。脚をこれでもかと捻った状態で雪に関節技を決められ、身動きが全く取れなくなった。クソ重たいザックとガチガチの競技用アルペンブーツと疲労困憊した体が混然一体となった結果だ。
「おーい、助けてくれ!」
いくら叫んでも助けは来なかった。その時クーロワール髙田も雪にはまり込んでいたのだ。
 彼にビンディングを開放してもらったのはそれから30分ほど後で、凍える体と痛む脚をを引きずりドカ雪が降りしきる中、二晩目のビバークをした。
 結局デポ地点にまでたどり着くことすらできなく敗退をした翌日四日目の、どっぷり日が暮れる頃ようやく雪にすっぽりと埋まった車にまでたどり着いた。
 帰ってからテレビのニュースでは、我々より少し上にいた韓国籍のパーティーが遭難して動けなくなっているという情報を伝えていた。一言でいえば、若くて無謀な盛りであった。
 それ以降、安易なトラバースは連帯保証人になるのと同様、絶対にお断りなのだ。
 そんなクーロワール髙田とは悪友の中でも最も長い付き合いで、山中では苦楽を共にした仲だ。雪庇の大崩落で墜落して離ればなれになったり、谷底のスノーブリッジに穴があいて雪の暗渠となっている出口のない暗黒世界の濁流に流されそうになったりとか、まあ恐ろしいことは一通り共に経験済だ。そんな彼だから、今回も何かしらのネタを身をもって提供してくれるものだと思っていた。
 だが、集合時間になっても遂に彼は現れなかった。
 忘れていたのだ。
 今思えば、それも彼一流の無意識による選択だったのかもしれない。
「行かないほうがよい」
 無意識のうちにそう判断したのであろう。
 そして我々が藪と格闘している最中、彼は子どもの運動会をつぶさに観戦していたのである。

   

 話は三日前に遡る。
 何を隠そう、私は今回の山行の趣旨をほとんど理解していなかった。
 気になる廃道があるので行ってみよう、と。平たく言えば、何か面白そうなところに連れて行ってくれると言うので、ほいほいと話に乗った訳である。例えるならば、バスツアーに行こうと誘われたのだが、前日まで忙しかったので行き先もよく分からないまま乗り込んで、すぐに缶ビールを呑んで、到着したけどぐでんぐでんでろくに観光もせず、結局どこに行ったのかよく分からないまま帰ってきたけど車内でのアホな話も面白かったし、カラオケも楽しかったみたいな物見遊山的山行のつもりであった。
 山行の段取りは全任せで、やることがあるとすれば料理長という職責から重量級の調理道具と酒を背負ってゆけばよいくらいのつもりだった。調理道具というものは軽量化によって得られるものは何もないのだ。
 買い出しは例によってホルモン、牛ホルモン、鶏ちゃんである。連中は青鬼※が好みらしく大量購入をしていた。野菜類は現地調達でまかなう。火は基本的に焚火。焚火にうるさい奴がいるからだ。

※ヤッホーブルーイング製造のIPAクラフトビール。強烈なホップと強いコクがあり、疲労困憊した体を蘇らせる効果がある感じがする。

 焚火をするならチタンのコッヘルという訳にはいかない。さすがにダッチオーブンを持っていくのは年齢的体力的に不可能だから、二十二センチの鉄製フライパンとする。ワインは比較的安価だが、お気に入りであるアメリカオレゴン州のピノノワール、フォリス ヴィンヤーズ ログヴァレー2019年とし、全くホルモン向きでは無いと分かっているのだが、吞みたいので持ってゆく。しょうがない。そして間違ってもペットボトルに移すなんて野暮なことはしない。リーデルのピノ&ネッビオーロ用ワイングラスはあきらめた。ハードケースが無いので、ザックに込めた瞬間にバラバラになって手が血まみれになるからだ。次回はハードケースの調達だ。そんなこんなでツエルト泊にもかかわらず、なんと七十リットルザックの出番となった。それに加えて斧を持って来いとか言われたので、斧と、今回のために新調した折りたたみ式の鋸を腰に携える。本当は玉切り用の窓鋸でも持っていきたいところだが、あまりにかさばるのでタジマツールのGSaw七寸替え刃式鋸とした。アサリもちゃんと付いている。これ見よがしに持っていったら、木こりの諌山も全く同じ鋸を所持していた。違いが判る男だ。
 だが同じでなかったのはザックの大きさだ。
 私が七十リットルなのに連中は四十五リットル級と三分の二の大きさなのだ。なんかおかしいぞという違和感を覚えたものの、終ぞ私は右手に斧、左手にフライパンという極めて古典的な出立ちで林道を歩き始めることとなった。

 一日目の野営地である峠までは、朽ちた橋が落ちているくらいで、別段問題は無かった。野営の準備に取りかかると、石見堂にくどいほど言われていたハイパー香取線香を忘れてきたと諌山が暴露した瞬間にヌカカの大群が襲ってきた。夥しい数の軍勢と対峙しながら焚火のための伐採が始まった。
 直径二十センチほどの樫、桜、楓、ハンノキの立ち枯れを次々と切り倒し、玉切りし、斧で割り、向う一週間分ほどの薪を積み上げた。井桁に組んでキャンプファイヤーでもやろうかという勢いだ。
♪もーえろよもえろーよー ほのおよもーえーろー
 火を付けるとすぐにヌカカはいなくなった。伐採の時に露出していた手首をぐるっと一周刺されて皮膚がミキモトのブレスレット※みたいになったが、さしたる問題は無かった。

※真珠のブレスレット

 宴が始まった。
 途中で採ってきたネマガリタケは皮つきのまま火であぶり蒸し焼きに、ウドは皮をむいて炒め、諌山家伝統の黒味噌をあしらい、ウルイはさっと湯がいて醤油をまわし、これ以上の贅沢はありえねーと激賞しながら腹を満たした。全くもって贅沢の極みである。
 いつものようにホルモンだけむさぼり喰うと、確実に体調が悪くなるのだが、今回は山菜の割合が多くすこぶる調子が良い。加えて近年のキャンプブームの軟弱さを批判し、精力絶倫男の武勇伝を語りあい、それらが絶妙なスパイスとなって我々のマッチョイズムを十分に満足させる結果となった。
 
  4
 

栃の大木。まだこんな樹が現存しているのだ。


 翌日の午後、完全に道を見失った我々は相変わらずイモ虫の速度で藪と格闘していた。
 諌山と石見堂は地形図、地図アプリ、航空写真、高度計、GPS、それらを複合的に駆使しながら方向を定めていった。また、所々わずかに残されている道の跡を見逃すまいと集中し、栃やブナの大木が現れると、その辺りもよく調べた。古の民も目印として大木の脇に道を作った可能性が高いからだ。
 明確な道が見つかったとしても、すぐに極悪な藪に阻まれ、しぶしぶ道を外れて歩きやすい場所を探さなければならなかった。そして一旦道を外れると、再び同じ道に合流できる保証など全くなかった。
 知恵をふりしぼって判断を下すものの、二人の意見は当然のように対立し、各々別ルートを開拓してゆく。
 概ね諌山が山側の方、石見堂が谷側の方を歩いてゆくので、金魚の糞のようについてゆく私は彼らを実験台とし、どちらのルートが正解なのか慎重に見極め、あるいはどっちに行くのも御免こうむりたいときは二人の中央を突破していった。
 しばらく進んではやっぱり間違いだと気が付いて戻ることを繰り返しながら少しづつ進むのだが、戻るときはほぼ凶悪な登りと相場が決まっていて、四つん這いで笹をつかみ、断末魔のようなうめき声を上げながらよじ登る。   笹を力いっぱい握り続けたおかげで軍手の下から血が滲み、体中が擦り傷だらけとなっていった。
 そして予定よりも三時間ほど遅れて、最後の尾根にまでたどり着いた。
ここから下って跡津川に出られれば、もう着いたようなものだ。
 下り始めて標高が下がると植生が変わってきた。スギの人工林が現れ、大自然から人間のテリトリーへと帰ってきたことがたまらなく嬉しかった。スギヒノキの人工林は光が差さない暗い森だとか、がんばって植えた人の気も知らずに批判されることも多いが、下草の育たないその森は非常に歩きやすく、全部これでいいんじゃないかとすら思えてきた。
 だがそれはいつまでも続かず、ふたたび劣悪な藪へと突入する。
 さらに植生が変わり、うるしや野アザミが出現した。
 トゲが体中に刺さり、うるしの新芽が折れた断面から乳白色の液体が滲んでいる。
 だがもはやそんなどーでもよいものを避けるなどという気力も体力も感覚も無かった。
 うるしの樹液がぞぞぞーっと首筋になすりつけられる。
 モリアオガエルのタマゴが全身にベチョベチョとへばりつく。
 そしてもう限界だ、と思ったところで河原のでかい石の上に降り立った。
 全身の毛穴が開き、その場にへたり込んだ。
 強力伝の小宮※のように、赤い小便が出るかと思ったが、黄色だった。

※新田次郎の小説の主人公。白馬岳山頂に風景指示盤を担ぎ上げる。重量は何と50貫近くある花崗岩が2個。

 河原を歩きながら、今日一日の諌山と石見堂の行動を考えていた。
 彼らも決して楽ではなかったはずだが、でかい木が現れると諌山のテンションが上がり、魚影を確認すると石見堂が騒ぎ始める。連中は自分の得意なことについて余裕があった。それに対して、私はそんな余裕などこれっぽっちも無かった。
 ふと河原の石を見ると、一個だけ異様な石が落ちている。木の杢目があるのだ。
 一瞬、流木かと思った。
 だが拾い上げるとその重量はまぎれもなく石、木の化石であった。
 最後の最後に現れた余裕のおかげか、木工屋としての意地か、私はそれを拾い上げ、帰途に就いた。

 あれからずっと目の前にその化石がある。
 松のような杢目の化石は何故私に拾われたのだろうか。
 そして、あの時、もしクーロワール髙田が参加していたならば、結末は大きく変わっていたことであろう。
 悲壮や歓喜さえも。


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