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「先従聴始」〔コイネージ【新造語の試み】8-1〕


「プロとは、学べてこそ…だな」。

そう思ったのは、某受験カウンセラーに相談したときのこと。

その先生が、先ずしてくれたことは「聴きの徹底」だった。

"ただひたすら聴いてくれた"のだ。僕の相談事を、一から十まで一切口を挟むことなく。

途中、"七"あたりで反応があったがその時点ではなにも言わず、「さっき、〇〇と言ってたけど…」と反応した箇所についての質問をしたのは、僕が十まですべて話し切った後のことだった。

僕のような素人だと、反応したと同時に「イイタイ!」という衝動を抑えられるか怪しいところだ。

「なるほど。これが『人の話を聴く』ということか」。


僕は素直に感服してしまった。

以来、そのときの先生の聴き方が、僕にとっての「傾聴のロールモデル」となっている。

思うに、「相手の口から出る"音"を、ただ耳に入れること」=「相手の話を聴く」となるのであれば、「聴き上手」「聴き下手」という言い方などありはしない。

同じ「聴き」であっても、両者の間には「雲泥の差」ともいうべき差があるから、「聴き上手」「聴き下手」という峻別が成り立つのだ。

その「差」とは至極単純。

どれだけ、「傾聴を主、主張を従」とできるか

言い換えれば、「相手の話を聴こう」を"100"、「私の考えを言わせて」を"0"にできるかだ。

このような聴き方をしてはじめて、「聴き上手」ないしは「人の話を聴く」というのだ。

これを、古代中国の、とある古事成語より拝借して

「先従聴始」「先ず聴より始めよ」

と呼んでみる。

これが、「聴きの基本」であり、すべてはそれから始まる

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