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「私はKYじゃない。AKYだ」〔クリシェ【凡百の陳腐句】16〕

「AKY」とは、「(A)あえて(K)空気を(Y)読まない」の略語らしい。

多くは、「お前はKY(空気読めない)だ」と言われたことに"対抗"して、「私はKYじゃない。AKY(あえて空気読まない)なんだ」という形で使われる。

個人的に「空気を読む」の表現は大嫌いなので、これに反撃できる言葉があるのなら悪くない

…と言いたいところだが、そうでもない。

結論を言うと「AKY (あえて空気読まない)」は、「KY (空気読めない)」のアンチテーゼとしては"脆弱"である。

そもそも、「KY」自体が既に(2022/7現在)"死語"であり、これに伴い「AKY」もしかりとなるが、これはさておく。

まず、「あえて」という日本語には「やりにくいことを押しきってする」という意味が含まれる。

つまり、「私はAKYなんだ」と言った時点で「空気を読まない」ことが「押し切るほどにやりにくい」ことを認めており、「KY」への対抗勢力としては少々弱い。

「KY」に対抗するなら、

「KYGF」

つまり「(K)空気(Y)読んだうえで(G)ぐりんぐりんに(F)踏み躙る」くらい言って欲しいものである。

そして、「空気を読まない」の方だが、この言い方は「その状況において、自分はなにをすべきで、なにをすべきでないか」がわかる人。

つまり、「空気を読もうと思えば読める人」のセリフであってこそ意味がある

何が空気読めていて、何が空気を読めていないのかがわかってない人。つまり「空気を読めない人」が、「あえて空気読まないんだ」と言っても"空言"となるだけだ。

「空気を読め」に対抗して「あえて空気読まないんだ」と言うとき、大抵はこのパターンである。

つまり、「AKY(あえて空気読まない)」は「KY(空気読め)」への対抗勢力としては、"脆弱"である。

さらに、もっと決定的なことをいうと「KY」と「AKY」の対立軸自体、無意味な代物である。

「空気を読む」という表現自体が、「状況判断」の下位互換だからだ。

「状況判断」は、

①意味が語句に端的に表れており、
②不得手な者にとっての標となり、
③「空気を読むことが妥当でない」状況の判断を観念できる


点で、「空気を読む」より優れている。

ということは、「AKY(あえて空気読まない)」と言っている時点で、「状況判断」の下位互換である「KY(空気読め)」と同じ次元に立っているということ。

言い換えれば、「空気読め」対「あえて空気読まないんだ」の争い自体、「状況判断」というジンテーゼからすれば、蝸牛角上の争いに過ぎない、ということだ。

「空気読めない」というのは「状況判断の力が未熟」ということ。状況判断ができないのは、確かにまずいので、そこはなんとかする必要がある。

しかし、「状況判断」さえ心がけておけば「空気を読む」は問題でなくなり、それに伴い「あえて」の観点も消滅する。

すべて「空気を読む」は「状況判断」で事足りるからだ。


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