「遅刻のセオリー」はやっぱりこっち 〔マキシム〈ニーチェ〉【金言の再現】1〕
待たせるのは不道徳
連絡もなしに人を待たせるのはよくない。マナーや約束の次元だけの問題ではない。待っている間にその人は、あれこれと良からぬ想像をめぐらせ、心配し、次には不快になり、だんだんと憤慨してくるものだ。
つまり、人を待たせるのは、何も使わずにその人を人間的に悪くさせてしまう不道徳極まりない方法なのだ。
『人間的な、あまりに人間的な』
『超訳 ニーチェの言葉』通し番号125 (フリードリヒ・ニーチェ著 白取春彦訳 ディスカヴァー)
某「ひ」の字がつくインフルエンサーが「遅刻しても、成果さえ出せればいい」と発言して物議をかもしてました。
単純にロジックとしての"汎用性"が低いと思います。
この発言は、「始業時間に遅刻しても…」ということでしょうか。
例えば、始業時間きっかり出勤して100の成果を出すAさんより、遅刻して出勤して120の成果を出すBさんの方がいい。
そういう事なら、かなり「限定的」だなと思います。
Bさんが、たった1人で成果を出せる人だったり、あらゆる人間よりも優位な立場にあるならいいのでしょうが、そんな人まずいません。
「人は一人では生きられない」のセオリー通り、通常は複数人で協力して仕事をしますし、「この人がこの時間にここに来る」ことを前提に個々のタスクをするでしょう。
それを破れば、他人の不快と憤慨を買うことになります。
それと、プライベートには全くあてはまりません。
例えば、友達とディズニーランドへ行くための待ち合わせ。それに遅刻してもなお、得られる「成果」ってなんでしょう。
「あなたが時間通り来てくれていれば、その時間でディズニーランドをより楽しめた」想いは、不信のタネ以外の何ものでもないでしょう。
(「彼」も、なんか奥さんに"釘を刺されていた"ような気がするけど)。
僕も「どうしたら効率よく仕事をこなせるか」に使うべき思考を「あれ?あの人時間なのに来ないな?連絡した方がいいのかな ?」という感情に割かれてモヤっとしたことはあります。タスクの嵐の時にやられてイラッときたことも。
あれが「人間的に悪くさせ」られたということなら、まぁやっぱり「人を待たせるのはあかんな」ですね。
結局、「仕事の一部の特殊な地位にいる人」にしか通用しないロジックと「仕事における大半の人間と場面」+「全てのプライベート」に通用するセオリーでは、"汎用性"で後者が勝る。
さらに、100年以上の前のドイツ人哲学者ニーチェの口から語られ、それが今も受け継がれている。
つまり、「人を待たせないこと」は時代や国・地域に関係なくあてはまる社会規範であり、オーソリティ(誰が言ったか)にも偉人級。
結論としては、「遅刻しても、成果さえ出せればいい」と「人を待たせるの不道徳」では、社会規範としては後者の方が上ということになります。
といっても、「彼」の影響を受けて「遅刻しても、成果さえ出せればいい」主義になった人なんてそうそういないでしょうけど。
(参考図書)
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