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「あなたが作ればいい」

グループホーム開所にあたり

すべては
この言葉から始まった。

1997年、地元のフリーペーパー情報紙に在宅ライター募集があり、「物書き」としてスタートしたい私は、応募し面接に行く。

「障害者ならではの視点で記事を書ける」
とアピールしたのが功をなしたのか採用が決まり、月2本の執筆を始める。

①鹿児島県で頑張っている障害者
②障害者をサポートする施設

この2つの記事を、取材を通して執筆し
フリーペーパー情報紙に掲載される。

ろう者のみならず、さまざま障害者たちを取材してきた。

その時である。

ある知的障害の入所施設に取材に行くと、見覚えある利用者さんが。短大では体育科を専攻していたため、鹿児島聾学校での教育実習の際に見かけた生徒だった。

辺りを見回すと手話を使う人はいない。音声のみの施設の中で、その子はぽつんと1人で作業をしている。

声をかけてみた。

手話で「私のこと、覚えている?」と。あんまり覚えていないようだったが、私の手話での問いかけは理解していた。

そこで、その施設の職員さんに「あの子、知っているのですが、コミュニケーションは手話で?」と尋ねると、「手話ではないが、簡単な身振りで」と言われた。

音声が飛び交うなか、ぽつんと佇むその子。寂しすぎる。

しかし、それ以上は何も言えず、施設を後にした。

「職員みんなが手話を覚えればいいのに…」

そんな思いをずっと引きずったまま、月日がたった。

そして、ある日。
「手をつなぐ育成会」の会長さんを取材する機会があった。
「手をつなぐ育成会」とは、知的障害者とその家族を支援するための活動を行う団体である。

ひと通り取材が終わった後、「知的障害を併せ持つ聴覚障害者がいる。卒業後、施設に入ることがあると思うので、職員さんには手話を覚えて欲しいのだが」と話すと

「あなたが作ればいいのよ」

と。

「えっ!? Σ('◉⌓◉’)」

まさしく青天の霹靂とは、このこと。
予想だにしなかった答えに、一瞬思考が固まった。

詳しく聞けば、その会長さんのお子さんが自閉症で、卒業後のことを心配した同じような親たちが力を合わせて施設を立ち上げたり、活動したりしているとのこと。

「あなたが、そういうニーズを分かっているなら、その思いに賛同する親たちを集めて作ればいい。市役所にいろいろ相談すればいいよ」

とアドバイスがある。

まさか、自分が。
全然思いつかなかった!

それから市役所に足を運び、いろいろ筆談で相談する。

まずは小規模作業所の補助金制度があることを知る。
まだ障害者自立支援法の時である。

すでに、聴覚障害児対象の「障害児学童保育補助金制度」による学童保育デフキッズを運営(2005年)していたので、設立のためのノウハウはなんとか理解できる。

しかし、問題は作業の内容だ。

利用者は、1999年に聴覚障害児のための学習塾「デフスクール」を運営していたので、その卒業生が何人かいる。その子たちの保護者に、「いつか立ち上げるので、通ってくれませんか」と話を持ちかけ、保護者も快諾し待ってくださることに。

それから急ピッチで、小規模作業所の作業内容の構想を練る。

鹿児島聾学校には、被服科、木工科があるので、その特技を活かした内容にしようと考えていたところ、私が作業所を立ち上げることを知っている知人から夜中に呼び出される。

なんのことかと思い家に行くと、年配の夫婦がいらして、筋ジストロフィー症を持つ人たちや、さまざまな障害者が働く店、加治木まんじゅう(酒まんじゅう)「ぶどうの木」のオーナーさんだという。

高齢になったため、まんじゅう製造機や技術者を全て無償で譲るという。実は、他の店に譲渡が決まる寸前だったそうで、私の思いを知人から聞かされたオーナーさんは、それならば会いたいとのこと。

まず私の思いを聞きたいということだったので
「自分の利益のためにやるのではない。知的障害を併せ持つろう者が働き、収入を得る。そんな場所を作りたい」
と話すと、その場で譲渡することが決まった。

加治木まんじゅう「ぶどうの木」は、オーナーさんの悲しい過去から障害者のためにと私財を投げうって立ち上げた店。
だから、私の目標、やろうということに共感し譲るというのだった。
全て無償で譲り受けるなんて、身が引き締まる思い。

これで設立のメドは立ったと、小規模作業所の名前を「ぶどうの木」に決定し、作業内容は加治木まんじゅうの製造・販売と、利用者の特技を活かした手芸・木工、そして2006年、鹿児島市より小規模作業所設立の指定を受け、数人の利用者さんが働く場所としてスタートした。

そして、後ほど障害者総合支援法や児童福祉法が施行され
学童保育デフキッズは、「放課後等デイサービス・デフキッズ」に
小規模作業所は、「就労継続支援B型事業所・ぶどうの木」
に移行する。

その後、加治木まんじゅうの製造・販売は機材の故障や、その他の諸事情により継続が難しくなり、店を畳むことになる。
オーナーさんからは助成金や寄付を募って再開したら?とアドバイスをいただくが、まんじゅう製造機は1,000万円以上はする。とても手が出なく断念する。
オーナーさんはがっかりしていたが、どうしてもできないことだったので
断腸の思いでお詫びをした。

そんな経緯から、せめてオーナーさんの思いは受け継ぎたいと、現在でも「ぶどうの木」の名前は引き続き事業所名として使わせていただいている。

後ほど、工賃アップとして加治木まんじゅうではなく、「薩摩わっふる」を立ち上げることになるが、この経緯はまた別の機会に。

そのような流れで、ろう重複者や、ろう者の働く場所は確保できた。

となると、最後はグループホームである。

「親の亡き後、誰が面倒を見てくれるのか。兄弟がいたとしても、それぞれの生活がある。」
「施設に入所させたことがあるが、手話が全くない環境。やはり手話でのコミュニケーションができる場所が、親としては1番安心できる。子供のためにも1番いい。」

「だから、澤田さん、作ってください!」

そう言われて、約10年以上が経過した。
スタッフにも「いつかグループホームを作る」と言い続けてきた。

しかし、いちばんの大きなネックは「資金」。

毎年毎年、決算書とにらめっこしながら
いつ本格的に始動するか、理事と話し合いながらやってきた。

そして2020年あたりから、決算書の数字が安定してきたのを機に
2022年にグループホームを立ち上げると決意し
そこから情報収集や見学などを

特に新潟の「NPO法人にいまーる」さんには
グループホーム設立のための情報やアドバイスをたくさんいただいた。
見学及び、スタッフを行かせ研修もさせてもらった。

感謝しても、しきれないほど。(ありがとうございました)

そして2023年、グループホームSign Terrace(サインテラス)が開所した次第である。

それには、収益をあげて続けてきたスタッフ皆さんの頑張りが1番大きい。
グループホームは、スタッフ皆さんの努力の賜物である。
大感謝!!


※2023年1月時点でのスタッフ数
 ●ろう者 常勤11名 ●聴者スタッフ 常勤2名/非常勤7名


揺り籠から墓場まで。
ろう者・ろう重複者および、ろう児・難聴児が
「手話」で可能性を最大限に、そしてイキイキと幸せな人生を送る。

そんな場所を
これからも守り続け、次世代に繋いでいきたい。

2023.1.8




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