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「NPOデフNetworkかごしま」の源流

NPOデフNetworkかごしまは、鹿児島市で2005年に発足したNPO法人である。

では、なぜ「NPOデフNetworkかごしま」なのか。

そのルーツを、源流を辿ってみると私の両親に突き当たる。
私の両親は、ともに「ろう者」だ。そして、その2人の間に生まれてきた私も「ろう者」だ。いわゆる「デフファミリー」である。

両親は、鹿児島聾学校を卒業し、結婚し、そして理容店「エンゼル」を構え、お客様に支えられながら愛されながら40年以上やってきた。
同時に父は、ろうあ協会の役員も務め、ろう者の地位向上や手話講師として手話普及にも努めてきた。
確かに昔は、差別や偏見などもあり、父母は私の見えないところで苦労はしたかもしれない。しかし、幼い私には、「不幸」やら「大変」やら、そんなことなども両親の表情から全然感じることなく、すくすくと育った。むしろ「笑顔」いっぱいの、会話いっぱいの家庭だったと遠い記憶がある。きっと父母という、大きな「風よけ」があったからかも知れない。

私は、といえば最初は鹿児島聾学校幼稚部2年間在籍し、その後地域の幼稚園に移り、それ以後、手話とは無縁の聴者世界で育つことになる。手話はカタコトだったが、読み取りはできていた。両親の家によく集まるろう者たちの会話はほとんど理解できていた。

しかし、父母は、ろう世界に私を入れさせなかった。入ろうとするものなら、断固として反対していた。差別や偏見、まだ理解のない時代だったからこそ、仕事の選択肢も少なかった時代だったからこそ、ろう世界にいては「可能性はない」と思っていたのだろう。

あれから数十年たち、ろう世界に関わらないうちに気がつけば、なんやらパワーあふれる「ろう者」たちが段々と台頭してくる。
Dプロの誕生・活動、「ろう文化宣言」。
東京から戻ってきた鹿児島聾学校卒の「青年たち」は「ろう者としての誇り」やらを言ってくる。

「なんなのだ、これは??」

第一印象はこれだ。

「ろう者の誇り」「手話は必要!」
堂々としていた。
なぜ、そう思えるのが不思議でならなかった。
むしろ、私には到底理解しがたい思考だとも思った。

そこから青年部の活動に入り、だんだんと「ろう世界」を取り巻く環境がいかに私が知っているものとは違うことを知るようになる。それと同時に、これまで見えてこなかった問題点、課題点が浮き彫りとなって見えてきた。

障害者が悪いのではない。
社会の方に問題があるから、「障害者」になってしまうのだ。

「見て理解できる」手話を否定し排除し、口話一辺倒だった「ろう教育」。
何を言ってるかもさっぱり分からないまま進行する「ろう教育」。
それが18年間も続くわけだから、そりゃ当然日本語の理解や知識も増えるはずがない。むしろ苦痛だったか、暇を持て余していたか。

これまで日本語が苦手な両親のことを、「努力が足りない」からだと内心思い、責めてきた自分を恥じた。

手話は、「見える言語」であり
聴者が努力しなくても自然に耳に入ってくるのと同じように
手話だって、「見て分かる自然な言語」なのだ。

耳を側立てて努力しなくても「見て分かる言語」なのに
社会は聴者ばかりだから、と口話訓練を押し付ける。
(確かに便利なツールではあるけれど)
苦手な口話をただ無闇に訓練する時間があったなら、学力や知識を身につけていく方がはるかに合理的だ。
日本語も知識も乏しいままで社会に行ったって、その差だけでも負ける。
どう考えたって当然のこと。

「手話」で理解し、膨大な知識やスキルを身につけ
手話通訳や筆談というコミュニケーションツールで聴者相手に堂々と渡り合えることはできる。それが当たり前のことだと分かりはじめた時から、私は動き出していた。

そして今の私がいる。

今の活動の源流は
今の「私」の源流は
「ろう者の両親」なのである。

だから
ろう者の両親のもとに生まれてきたことを
ありがたく思うと同時に

過ちを繰り返さないためにも
可能性を最大限にするためにも
社会を変えていくのだ。

それが、「NPOデフNetworkかごしま」の源流なのである。





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