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物語れば己が見えてくる

ここの所、連続して短編小説もどきを書き上げた事で、文章を書く時の自分のクセなど新しい発見があった。

基本的に物語を書く時は全て唐突。何かを書こうと思って始めるのではなく、突然頭の中に溢れてきた言葉や文章をメモに取り、物語の形に仕上げていく。きちんとテーマや描きたい事を決めプロットを立て、登場人物の細部まで固めて物語を動かしていくのが正しいのだろうが、僕にはそんな緻密なやり方は到底できない。文章として読み易くする為にテンポや形式を合致させたりという調整ぐらいはできるのだけど。

大抵はこのスタイルなのだが、先日の『月下の逢瀬』は今までとはガラリと変わった形で書き上げた。

突然頭の中に…までは同じ。ただ言葉や文章ではなく「サイレント映画」の形で脳内に映写され、それを言語化していった。言語化することで新たにシーンが生まれ、脳内のサイレント映画が更新されていくというかたち。だから脳内映像ありきで文章化するという新しいスタイルで書いたわけだ。この辺りは膨大な数の映画を観てきた影響かなと。完成した短編小説もどきを読んでみると、なるほどサイレント映画の間合いで物語が書かれているようにも見える。

素人が何も考えず自由気ままに書くからこそ、こんな面白い発見があるのだろう。

それと書き方のクセ。思いつきから物語を作る為に、緻密さを要求される長編ではなく、短編もしくはショートショートの形式を好む。その形式ゆえか余白が多い。いやむしろ余白しかないとすら言える(特に連続であげた三作は)。見方によっては長編の1シークエンスだけを短編にしたのでは?と見えるかもしれない。しかしながらここには明確な意志がある。前後に説明的なエピソードが無くても、短い中にそれを想像させるフックはいくつか置いてあるので、読めば何となく掴める工夫をしているつもり。文章そのものの長短ではなく、読後の広がりに重きを置いているとでも言えばいいか。あと自分自身が読み手(映画や演劇であれば観客)の立場である時、受け手が自由に想像できる「説明不足さ」を重要視しているからというのもある。

スタートラインは唐突。勢いに任せ感覚を吐き出してはいるものの、構成する段階で色々ギミックを入れたりと、割合冷静に仕上げていたりするわけだ。妄想が暴走して言葉とダンスを踊っているだけではないのです(笑)。

どんな形であれ、自分自身の特性みたいなものを把握するのは大事だし、内側にあるものを言語化することで心のリハビリにもなっている。

いつだって唐突なので、次に物語るのはいつになるかわからない。ただ今後も色々と言葉を捏ねくり回していこうとは思う。

ちなみに。

今も昔も。

僕が書く物語は死と孤独に取り憑かれている。

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