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変容

隣に巨大な虫がいた。その場所に寝ていたはずの夫はいない。この虫が夫なのだろうか。何か手がかりはないものかと、その身体に目を走らせてみる。鈍く緑色に光る仰向けの腹には、左右三本ずつの脚がありウネウネと蠢く。頭部と思しき部分は小さくてよく見えないが、触覚のようなものがチラチラと見えた。手前にあるのは口だろうか。細かい毛がまばらに生えている。どこをどう見ても虫にしか見えない。しかし私はこれが夫であるという確信めいたものを感じていた。

平凡を絵に描いたような夫に対し物足りなさはあった。心動くような変化を望んでいなかったと言えば嘘になる。だとしても。一夜明けたら夫が虫になっている。あんまりではないか。釈然としない気持ちのまま、その身体に目を戻す。

硬いのか柔らかいのか判別のつかないヌラヌラした腹。六本の脚はバラバラに動いている。そうやって仔細に観察したところで一向に埒は明かない。ならばと、指で脚の一本に触れてみた。硬くザラザラとした肌触り。今度は軽く握ってみる。すると夫の手を握った感触が蘇った。ああやはりこれは夫なのだ。そう思うとこの奇妙な状況も悪いものではない。姿形が変われど隣にいるのは夫なのだから。

急に愛おしさがこみ上げてきて、私は腹の辺りを優しく撫でてみた。じんわりと帯びる熱。脚先のチクリとした感触に声が漏れた。変わり果てた姿にもかかわらず、人間であったときよりも身体は火照りを覚えるのだ。吐息に感度を委ねる。荒くなった息が虫の口元にかかると、身震いしながら脚のうねりが増す。その振動が手に伝わる。感じたことのなかった夫との共振。私も夫も重なっている。そう思うと痺れるような快感が全身を駆け巡った。腹を摩る手に力がこもる。脚を握る手に力がこもる。得も言われぬ熱が頂点に達したとき。その手は脚をもいでいた。

もげた脚から流れる七色の体液。内側に残る熱のせいで朧になった意識の中、抗いがたい誘惑だけが形を為す。指と手が体液をもて遊び、紅潮した頬を七色が彩った。残る脚をうねらせる虫からは、快楽に溺れているのか痛みにのたうち回っているのかの判別はつかない。しかし私は夫との間にまたしても共振を感じていた。人間であった時には得られなかった身も心も繋がる感覚。夫が虫になったいま。それはより強くなった。

身体の奥にある痺れに身を任せながら、私は隣にいる虫に目をやる。その身体は鮮やかに輝いていた。あの平凡だった夫がこんなにも美しく、こんなにも私を昂らせてくれるのか。

荒い呼吸のまま別の脚を握る。抑えきれぬ烈情に曳かれ昂りに達するたび、一本また一本と脚はもがれてゆく。ついには六本全てがあるべき場所を離れた。全ての脚を失った虫は体液を垂れ流し、その色に憑かれた私は静かに笑う。形容しがたい解放感のあと、私の中に眠っていた何かがゾワリと脈動を始める。激しさを増しその勢いで身から出た何かは、目の前にある虫を丸呑みにした。

いつものベッドに私がひとり。
私の中の夫とふたり。

ある朝、夫は虫になった。
ある朝、私は。

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