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#04「公園(公共空間)」×「ホームレス」こぼれ話

昨日まで『「公園とホームレス」から、これからの都市の空間を考える(1)〜(4)』と題して長めの記事を書きました。その補足や、そこには収まらなかったエピソードを何点か、緩くご紹介。

元々公共空間が主要なテーマである研究室に属していたので、このテーマはドンピシャで専門なのですが、僕自身は正直言いますと在学中はあんまり勉強もしていなかったんですね。しかし一昨年に身体を壊した後に療養期間といますか、結構時間ができたので色々と公共空間の理論を勉強することができました。そう言った意味で、改めて考えてみたいと思っていました。

それから、数年前に共著ですが、「社会課題を解決する舞台となる公共空間 ─市民参加型の深夜ホームレス実態調査から」「「社会と自然の結節点としての公園」というビジョン―東京五輪・パラ五輪を巡るふたつの動き」という2篇の論考と、「行政機関が締結している公共空間におけるホームレス・プロトコルの研究 -オーストラリアNSW州シドニー市を対象として-」という論文を書きました。このあたりの内容を、論文という形でなく、専門外の方にも読める形でリライトしたいなとも思っていました。それで今回の全4回の記事を書いたのですが、「公共性の担保」をどう評価するなどはなかなかに奥が深く、また公共空間の成り立ちなども話せばキリがないので、どれくらい「カタイ」文章にするかも含めて難しかったですね。わかりやすい事例の物語と、理論っぽい話を交互に書いてみましたが、どうでしたでしょうか。(却ってわかりづらかったかもしれませんが…、どうすれば伝わる文章になるかは永遠の課題です)。

第1回に出てくる「ジェントリフィケーション」は、あまり馴染みの無い言葉だと思います。確かに日本だといわゆるゲットーみたいなところがクリアランスされるイメージはしにくいかもしれません。ただ、古い街並みを整理してタワーマンションにして、綺麗な感じになっていくような状況もある種のジェントリフィケーションと言えそうです。その際元いた住民が追い出されるということでは無いですが、相対的に家賃相場が上がったりということもあるでしょう。それから、再開発などに伴って、渋谷ののんべえ横丁みたいなところもどんどん消えていきます。

第3回の記事に出てくる「プロトコル」ですが、これは僕にとっても思い入れの強い話です。学部4年生だった僕は、オーストラリアにはこんなに興味深いものがあるということを恩師に教えていただき、それを卒業論文のテーマにしました。今も細々とホームレス問題に関わらせていただいていますが、それが全ての始まりでした。行政が、「ホームレス状態でも公共空間にいる権利がある」ことを文書化するなんて、日本では考えにくいですね。しかし、オーストラリアに赴き(これが初めての海外経験でした)、そのおおらかな雰囲気に、少し合点が行きました。シドニー中心部のビジネスエリアの中の公園。芝生がとても綺麗で広々としているのですが、昼休みなどはスーツ姿のサラリーマンもゴロリと寝転がって休憩したりしていました。僕もゴロリと寝転がりたくなります。その中で、ホームレスの人が寝ていようと、確かにその人だけ追い出そうという気にはならないなぁ、と妙に納得したのでした。

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その後、シドニーでも強制排除のようなものが起きてしまった例もあり、海外の事例を楽園のように捉えすぎるのも問題ではありますが。しかし公園自体のデザインやあり方とともに、市民の使い方や捉え方も違っていて、それは僕もどうにか関わることができる領域なのではないかなと思ったのでした。日本の公園は(気候的な植生の問題もありますが)、あまり寝っ転がってのんびりしようという感じではないですよね。そこは、行政の管理に頼るだけではない形で、市民も参加しながらもっと豊かな公園をつくっていくことができたら良いなと思っています。本当の公園でなくとも、例えば市民が出資して、「勝手に公園」をつくるのもアリだなと思っています。かつて東京緑地計画というのがありましたが、いわゆるグリーンベルトをつくることは難しい。でも、緑被率UPを目指している自治体もありますし、例えば固定資産税の優遇とかのインセンティブがあれば、「勝手に公園」も夢物語ではありません。どうせ人口も減っていくので、長期的ではありますが、都市内の自然面の創出に投資するのは、たとえば豪雨への備えなどにおいても重要なことだと思います。グリーンインフラとか、グリーンニューディールとか、いいですよね。でも、これを勝手に行政がやるわけではなく、市民が参与しデモクラシーの舞台にした方が良い、というのはランディ・ヘスター先生の「エコロジカル・デモクラシー」から得られる示唆です。

それから、海外でのエピソード。米国のシアトルに調査に行った時、「テントシティ」に行きました。ある意味自治区のようになっていて、住まいを持たない人々が、一応州に黙認されたような場所で独自のテントシティをつくっていました。日本だとこういう場所はもうほとんど無いですね。ただ、テントシティの人は、「州は僕たちを無理には追い出せない。でもあえて危険な場所(地滑りが起きそうとか)をあてがうことによって、事故が起きればそこに住むことを禁じることができる。そういう意図を持っている」という旨のことを話していました。

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僕の記事を読んでくださった方が「アジール(「聖域」「自由領域」「避難所」「無縁所」など治外法権的な場所)」の話をしてくださいました。東京や大阪ではアジール的な空間が減っている、と。確かに近年の文献ではあまり「アジール」について書いてあることを見るのが少なくなりました。単なる流行りの問題なのか、それとも日本では本当にもうなくなってしまっているのか、考えさせられました。(僕が勉強不足なだけかもしれませんが)

最後に。公園だけでなく河川敷なんかも公共空間です。以前近くに住んでいたので二子玉川にはよく行きました。数年前に整備された二子玉川公園は、多摩川の植生を用いていたり、面白い公園なんです。そして多摩川に面したところは階段状になっていて、座って川を眺めたりできます。夕日が綺麗に見えるので、晴れていれば結構カップルが座って景色を見ているんですね。しかしですね。対岸の川崎側にはブルーシートのテント小屋がたくさん並んでいてるんですね。僕はもちろんそれを認識してます。しかし、夕日をうっとり眺めるカップルたちの目には、そこで生活する人たちの姿は多分全く映っていないんだろうな、と思うのです。角度を変えて見ると、何組ものカップル達が対岸のホームレスの人のテント小屋を眺めてうっとりしてるなんて、なんだか奇妙な光景でした。もちろん目には映っているけど、見えてはいない。同じ景色を見ていても、違うものを見ている。こういうことって、たくさんあると思うんです。どういうふうに景色を見るか。ということは、どう世界を捉えるか、ということです。そこが何を知っているかによって決定的に異なってくる。見ようとしなければ見えないものがたくさんある。そういうことも、そのうちテーマにしてみたいですね。とりとめも無くなってきたので、この辺で終わりにしましょう。

全4回の記事はぜひ、感想や考えたこと、教えていただければ幸いです。


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