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小説「お絵かきとおしゃべり」(2) 滴一滴

滴一滴さんの小説、第2回をお送りします。
第1回はこちらです。併せてご覧ください。

・・・前回までのあらすじ・・・
会社員・岡崎睦武(おかざきむつむ)は絵を描くことを趣味としていたが、ある日突然、全く書けなくなってしまう。鳴海真菜華(なるみまなか)へそのことを相談すると「日記を書いてみてはどうか」という提案が。岡崎はその提案に従い、時間をかけながら、過去を振り返り始める。
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2・1 2018年11月18日 終わりと始まりについて、思うこと

永遠に続くものは無い。あらゆるものに終わりは来る。

だから重要なのは、いずれやって来る『終わり』に対して、どのように向き合うのか、ということに尽きている。

これは別に、抽象的で、幻想的で、詩的な話ってわけじゃ無い。
とても具体的で、現実的で、日常的な話だ。

でも、だからといって退屈で時代錯誤でありふれた話というわけでもない。
誰もが一度は真剣に考えるべき、普遍的な、思索の余地に満ちた話だ。

例えば、あらゆる生き物は死という形で終わりを迎える。
僕も、あなたも、いちいち電話してくる僕の母親も、一度も会ったことがないネット上の知り合いも、電車で毎朝遭遇するあの人も、隣の部屋でこっそり飼われている猫も、電線で一休みし続けている鳩も、誰も彼も、必ず死を迎え、生を終える。

生き物以外だってそうだ。絵画も、建築も、山も、海も、街も……いや、それだけでなく、目に見えないモノ、それは例えば、ブームや、恋愛や、考え方や、言葉や、場所や、国だって、終わりは迎える。終りの到来に、決して例外は存在しない。

日々、どこかで何かが終わり、そして同じように、新しい何かがどこかで始まっている。

もちろん、新しい何かが始まったからといって、これまでの何かが即座に終わるわけではないし、その逆もしかりだ。それらは浜辺へ押し寄せる波のように、連続した形で現れる。でも、だからこそ、新しい波の始まりが、これまでの波の終りを、そしてこれまでの波の終りが、新しい波の始まりを知らせる警笛であることは確かだ。

だから、耳をふさがずに、しっかりとそこへ耳を澄ますこと。目をそらさずに、警笛の聞こえた方角を見ること。そして考えること。決めること。動くこと――。

なにもこれは、次々とやって来る流行りの商品に乗っかり続けろとか、そういう話ではない。そうではなくて、あなたが立っているその場所も、実は固い地面などではなく、ただの波に過ぎない、ということだ。

だから、終わりについて考えておくこと。それはとても大事なことだと、僕は思う。

メメント・モリ――昔から知ってはいたけれど、うまく理解することができなかったこの言葉が、最近になってようやく、僕は心の中へ収めることができた気がする。

そしてそのきっかけを僕に与えてくれたのは、真嶋伸司という男だった。

2.2 2014年と真嶋について

真嶋と知り合ったのは大学のころで、確か初めて顔をあわせたのは、共通の友人が主催した飲み会だったとは思うのだけれど、残念ながらあまり詳しいことは覚えていない。

そもそも大学時代はそこまで仲の良い存在ではなかった。学部が違ったので、顔を合わせる機会も少なかった。学内で会えば挨拶はしたし、共通の友人もいたので何度か遊んだことはあるのだけれど、逆に言えばその程度で、積極的に直接連絡をとる、ということは無かった。

彼との仲が良くなったのは、会社に入ってからの事だ。

僕たちは2014年の春に大学を卒業し、偶然にも、同じ会社に入社していた。「HSS」というのがその社名で、生活雑貨の卸しをしている会社だった。

僕がそのことを知ったのは、四月の末に全部門合同で行われた新人歓迎会でのことだった。僕が部長に連れられて、他部門の先輩へ挨拶しているところを、真嶋が見つけ、声をかけてきたのだ。

そこで僕たちは久しぶりの、そして偶然の再会に驚き、先輩への挨拶もそこそこに二人で盛り上がり、色々と喋ったことを、今でも鮮明に覚えている。

ちなみにいえば、僕が就職したのは、HSSのIT部門というところで、SE兼プログラマというのが、与えられた肩書だった。

IT、という大雑把な部門名からも見て取れるように、業務は多岐にわたる。基幹システムの構築や管理、ウェブページの作成と更新、営業の人が出先で見積もりに使うアプリの開発とサポートなどなど。数え始めたらきりがない。

ちなみにいえば、生活雑貨の卸しというこの業界で、IT部門を抱える会社は非常に少ない……というか、今のところ、僕はそのような会社を見たことが無い。基幹システムにしろ、ウェブページにしろ、アプリ開発にしろ、基本的には外注してしまうからだ。

部長から聞いた話によれば、昔はうちも外注していたらしいが、一度、基幹システムがダウンし、大きなトラブルに発展したことがあったらしく、それ以来、全てのシステムを自前で用意・運用する体制になったらしい。

そういったわけで、やることは多い。そもそも人手が少ないから、基幹システムの不具合や問題点の改善といった類いの課題は常に山積みだし、デザイン部や商品開発部は事あるごとにキャンペーンを告知するウェブページを作れと要求してくるし、その他にも様々な案件が『社長の気まぐれ』によって生み出され、我々の部門へと山積されていく。

「よその芝は青く見える、ってのは本当なんだな」

いつだったか、真嶋と二人で飲んでいるときに、彼は憐れむような笑みを浮かべてそう言った。

「そっちの芝はあんまり青くみえないけどね」
「言うねぇ。まあ、実際そうだろうけどさ。はは」

新人歓迎会での邂逅以来、僕たちは時折、予定を合わせて飲みに出かけるようになった。趣味嗜好やモノの考え方は結構違っていたけれど、そこが逆に面白く、刺激的かつ新鮮で、彼と会話することはとても楽しいイベントの一つだった。

彼が所属しているのは営業部門で、僕たちとはまた違った意味で激務のようだった。外回りによる新規顧客の開拓や、取引先のケア、営業部内での政治的な駆け引き、続々と出る新商品の売り込み文句の作成、その他もろもろ。僕であれば二日で音を上げるようなことを、彼はしっかりとこなし続けていた。

ただ、この会社は仕事が多く、大変であることは確かだが、そのぶん結果を出す機会に恵まれているし、やりがいも大きい、というのが、僕たちの共通認識だった。

例えば僕の場合であれば、給料は悪くないし、こちらから提案したシステムやアプリがうまい具合に運用できれば、社内で感謝されることだって少なくない。それに時折、僕たちの開発したシステムが他社へ売れることもあり、そういったときは「自分も会社に貢献できているのだな」という実感がわいてくる。

そして真嶋も、飛び込みの営業が大口の発注へ繋がる快感、取引先でトラブルをケアしたときに受ける感謝、新製品をプレゼンしたときの手ごたえなど、様々な場所で、彼なりにやりがいを感じているらしく、飲んでいるときに彼は、とても生き生きとした表情で、それを僕に語ってくれた。

実際、彼は仕事でなかなかの結果を出しているらしく、社内での評判も上々で、上司や同僚からの信頼も厚かった。

華のある顔立ち、というわけではないが、その表情は常に明るく、清潔感と爽やかさがあり、それでいてひょうきんな一面を持ち合わせているので、女性からの人気も少なくない。

もちろん、彼へ不満をもつ人間が全くいなかったかといえば、そんなことは無いだろう。実際、彼に対して妬みや僻みといった感情を持つ上司や同僚は少数ながらいたようだし、彼らによる『嫌がらせ』もいくつか受けたことがあるようだ。けれどそれが長く続くことがないのは、ひとえに彼がタフだったからだ、と僕は思う。

そう。彼はタフだった。嫌なことをそのままにせず、経験として活かす能力を彼は持っていた。

だから、僕は彼が愚痴をこぼしているところを見たことが一度もない。愚痴の体裁をとって話すことはあっても、その中身はいつも、聞き手を笑わせ、楽しませようとするサービス精神のこもったものばかりだった。

何かについて語るとき、彼は常に笑顔だった。彼が営業で結果を出すことができているのは、陰ながらに行っている様々な努力の賜物であることは僕も認めるけれど、しかし一番の要因はその笑顔にあるのだろうな、と僕は今でも思っている。

一度だけ、僕はその考えを彼に伝えたことがある。
すると彼は、照れたように視線をそらし、大げさに手と首を振った。

「いやいや、そんな大層なもんじゃないよ。そうじゃなくて、すごく単純な話でさ……。ほら、人が笑顔だと、それにつられてこっちも笑顔になるじゃん。で、俺はどっちかっていうと、笑顔でいたいと思う人間でね。だから人を笑顔にするようにしている。それだけだよ」

2.3 2016年の、9月の事について

「真嶋、辞めちゃうんだってな」

唐突に、上司の小野田部長がそう言った。
入社から二年と五か月が過ぎた、2016年の9月のことだ。

「勿体ないよな。彼、優秀だったし、期待も厚かったのに」

それまで、室内には激しいタイピング音が響いていた。『社長の気まぐれ』で、生産から販売までの様々な情報を司る基幹システムを、全面的に刷新することが決まったからだ。

納期は短く、打ち込まなければならない情報は膨大で、機能面も大きく変えなければならない。はっきり言って無理難題以外の何ものでもないが『社長の気まぐれ』は絶対であり、差し戻すことなどできず、結果としてIT部門の部屋には連日、怨念と殺気が込められたタイピング音が響き続けていた。

しかし今では、それが水を打ったかのように静まり返っている。誰も口を挟まないが、耳をそばだてているのが分かる。無音のどよめきが、室内を漂っている。

「手ぇ動かせ。時間ないぞ」

静かに、部長が言った。
少しずつ、室内にタイピング音が戻り始める。
しかし先ほどまでの殺気はそがれたのか、その音はどこか間が抜けていた。
そして僕は、そこへ参加することができなかった。
茫然としたまま、声を出すことすらできなかった。

僕は、斜向かいの席に座る部長の顔を見た。そして「冗談だよ」という言葉を待った。けれど、その言葉はいつまで待っても放たれなかったし、部長の顔のどこを探しても、そんな雰囲気は見当たらなかった。

少しして、部長は観念したように言った。

「確かな話だよ」

部長は手を止めて眉間を数回揉むと、再びキーボードを叩き始めた。

「月末で退社らしい。辞表は先週提出されたようだ。営業部長の畑中さん、なんとか彼を引き留めようと奮闘したが、努力虚しく、結局は受理せざるを得なかったそうだ。ただ、辞める理由がよくわからなくてな。畑中さんも「『辞めたい』の一点張りで、話し合いにならなかった」と言ってたんだ。もしかしたら、お前なら何か知っているかも、と思ってな」

「でも……先月一緒に飲みましたが、その時には、そんなこと、一言も……」

「なるほどな」

部長は全てを悟ったような声で、そう言った。

「まあ、彼なりの配慮なんだろう」

その日の夜、僕は真嶋を誘って近くの焼き鳥屋へ入った。水曜の夜だったが、店はそれなりに混んでいて、中年男性の笑い声や煙草の煙が店内には漂っていた。

僕たちは壁側にある二人用の席に通された。ラミネート加工されたメニューの中から、僕たちは枝豆とポテサラ、モツ煮、焼き鳥の盛り合わせ、そして瓶ビールを注文した。

何をどう尋ねるべきか僕が迷っていると、彼は困ったような笑みを浮かべて言った。

「悪いとは思ってるよ」

店員がやってきて、瓶ビールとグラスを置き、去っていく。
真嶋は僕のグラスへビールを注いだ。僕が彼のビールを注ぐために瓶を受け取ろうとすると、彼は「いいよ」とだけ言って自分のグラスに注ぎ、ぎこちない間を挟んだあとで、僕たちは乾杯した。

「別に秘密にしようとしてたわけじゃないんだ。結果的にはそうなっちゃったけど……本当さ。ただ、何ていうか……ちょっと言い出しづらくてな」

「辞める理由は? 畑中部長にも、伝えてないんだろう?」

「よく分らないんだ、自分でも」

枝豆とポテサラが届く。彼はビールを飲み干し、枝豆をつまんだ。

「今の仕事が嫌になったとか、そういうことじゃないんだ。やりがいは相変わらずあるし、楽しいし、今の職場の人たちも好きだよ」

僕は彼のグラスへビールを注ぎながら尋ねた。

「他にやりたいことができたとか、そういうことじゃないのか?」

「別に、そういうのは特にないよ」

「だったら……」

僕の言葉を遮るように、彼は首を振った。

「無理なんだ。仕事自体は嫌いじゃないけど、このまま仕事を続けていく、って考えた瞬間、すごく嫌になってしまうんだ。例えば、俺たちって今、三年目だろ? だから先輩たちの多くは『これから仕事が面白くなる』って言ってたけど、俺にはそうは思えなかったんだよ。

先輩たちの話をいくら聞いたところで『面白くなるって言っても、そんなもんか』としか感じられなかったし、それを『面白い』と思えるようになるのも嫌だった。

もちろん、それは間違ってるのかもしれない。俺が物知らずな青二才にすぎなくて、ただ生意気言ってるだけなのかもしれない。でも、先輩たちの言葉が正しいとは、どうしても思えなかったんだ」

その後、僕たちはしばらく黙ったまま、箸を進めた。

彼は黙ったまま俯き、何か考えているようだった。

僕は、どうにか話の突破口を見つけようと頭を絞ったが、そんなものはどこにも見当たらなかった。「息抜きに旅行でも行ってみたら?」「休職でもいいんじゃないか?」「今後の予定は?」そんな質問がいくつか頭には浮かんだが、どの質問を投げかけたとしても、彼が力なく首を振るのは目に見えていた。

「もしかしたら……」

唐突に、彼が言った。

「不安になったのかもしれないな。働き続けることに。

ほら『人生は選択の連続だ』って、よく言うだろ? あれって、俺はあまり好きじゃないんだけど、でも本当だとも思うんだよ。

好きじゃないってのは、それを逃げ道にしている奴が多いように感じるからなんだ。

例えば『趣味と恋人』や『仕事と私生活』を対等な選択肢として並べて『俺は趣味を選ぶ。だから恋人は捨てる』だったり『俺は仕事を選ぶ。だから生活は捨てる』だったり、そういうことを言ってる人ってよくいるけど、でもそれって全部、言い訳してるだけだと思うんだよ。

もちろん、人それぞれに能力の差はあるし、他にもいろんな事情があるとは思うけど、多くの人は単純に努力不足の言い訳だったり、努力しないための逃げ道として、その『選ぶ』って言葉を使ってると思うんだ。

確かにどこかの時点で選ぶことは必要さ。でも……あまりそういうカテゴリで選ぶ、っていうのは、俺は好きじゃないんだな。

だから、趣味というカテゴリの中で何を選ぶのか。仕事というカテゴリの中で、どういう働き方や収入を選ぶのか。そういうことなら納得できるんだけど、カテゴリそのものを選択の対象として、対等に並べるっていうのは、あまり納得できないんだ。

要するにベストを尽くさない人や、尽くそうともしない人があまり好きじゃないんだな、俺は。

ずっとそう思っていたんだけど……でも、最近になって、ふと思ったんだ。
そういう俺は、本当にベストを尽くしてきたんだろうか? 俺がこれまでに選んできた選択肢は、そもそも用意されたものに過ぎないんじゃないだろうか、って。

例えば、俺たちは就活するときに、合同説明会やら就活サイトやらで、就職先を探していたわけだけど、でも、別にそこに参加していない企業だって、無数にあるわけだろ?

そういった選択肢を視野に収めたうえで、それでも今の会社に入ったというならいいよ。でも、俺は多分、そういう選択肢をほとんど考慮していないんだと思う。というか、俺はこれまで、目の前に現れた選択肢を『これがすべての選択肢だ』って、あまりに素朴に信じすぎていたんだよ。

だから、一度、ちゃんと、考えてみたくなったんだ。
俺が会社を辞めるのは、多分、そういうことだと思う」

そこで話は終わった。
その後、僕たちは三十分程度、とりとめのない会話をして、店を出た。

「何か力になれることがあったら、行ってくれよ」

という僕の言葉に、彼は軽く手を挙げただけで、何も言わなかった。

真嶋の自己分析は、間違っていて合っている、と僕は思う。

これまで、自分なりのベストを尽くしてきたが、そのベストがあくまでも与えられたフィールドの中でのベストに過ぎない。しかし、もっと自分にとって重要な、尽くすべきフィールドでのベストがあるのではないか? 自分がまずやるべきなのは、そもそものフィールド自体を探すことなのではないか――真嶋の言いたかったことは、おおよそそういう意味だろうと、僕は考えている。

そして、確かにそれはその通りだ。僕たちは自分で選択をしているが、その実、選択肢自体は与えられたものに過ぎない。

しかし、それでは、彼がそう考えるに至った理由は何なのか?
最近になって突然「ふと思った」原因は何なのか?

真嶋の考察には、その原因への分析が欠けている。
そして僕は『それは真嶋が、会社を消費しつくしてしまったからだ』と思っている。

そう。人はあらゆるものを消費してしまう。

そして消費しつくした状態を、僕たちは日常において『飽きる』という言葉で表現している。

人があらゆる対象に感じる魅力の総量は様々だ。

だから例えば、二人の赤ちゃんに同じおもちゃを与えたとしても、それを同じ時間使い続けるとは限らない。一人はそれを使っていつまでも遊んでいるかもしれないし、もう一人は一分も遊ばず投げ捨ててしまうのかもしれない。

それと同じだろう、と僕は思う。

彼は会社を消費しつくし、飽きてしまった。飽きた後の会社で得られるのは、形骸化されたやりがいと金銭的な収入のみだ。それは彼を殺さないが、しかし同時に、生かしもしない。死んでいない状態を保ち、ただただ時間が過ぎていく。

そのような状況に疑問を持ち、抜け出すことを決意するのは、とても真っ当なことだ。

でも、だからといって、仕事を辞めるのが、果たして正しい選択だろうか?
会社への価値を回復するということは、本当に不可能なことなのだろうか?

思うに、真嶋は趣味でも持てば良かったのだ。つまり、消費する他の対象を用意すれば、その消費を継続するために収入が必要になるし、もしかしたらその結果として『仕事は辞めなくてもいいかな』と考えられたかもしれない。

そう。僕は二つの問題点を理由に、彼は仕事を辞めるべきではない、と考えていた。

一つは収入の問題。これは単純に、このまま会社で頑張れば、彼はそれなりのところまで行き、それなりの収入を得られるだろう、という話だ。

僕は別に拝金主義者ではないけれど、お金は重要だと思っている。昔、何かのテレビ番組に出ていたジャズピアニストが「お金は、本当に大事なことは何も解決してくれないけれど、それ以外は何でも解決してくれる」と言っていた。そしてその言葉は今でも、至言だと思っている。

そしてもう一つの問題は、思考の迷路にはまる、というものだ。

選択肢それ自体を疑い、その外側を考えるというのは、確かに真っ当な論理だとは思うが、しかし選択肢そのものは無限に存在しているので、それらを一つ一つ詳細に検討しては、それだけで人生が終わってしまう。

というか、選択肢自体について考えるというのは、自分について考える、ということについて考えることに等しい。自分が選ぶべき道はどこにあるのか。自分が求めているものとは一体何なのか。自分とはどういう人間なのか……。そのような考えは、演繹的・建設的に考えていては、絶対に答えへ辿り着くことができない。

そうではなく、帰納的――あるいは、ジグソーパズル的に考えるべきなのだ。つまり、多くの人と会うこと。そして、多くの人生に触れること。そうやって『自分以外のジグソーパズル』を枠へはめ込んでいくこと。そして、最終的にできた、ぽっかりと空いた『パズルの穴』から、自分という人間の形を類推し、埋めること。

そうやってしか、自分という人間について考えることは出来ない。だから一人になって考えるのではなく、人と接し続けること。人を通して、自分を知ること。それこそが、自分を知る唯一の手段だ……少なくとも僕は、そう思っている。

そんなことを考えながら、僕は電車に乗って帰っていた。
既に夜の十時をまわっていた。車窓の向こう側は闇夜で満ちていた。
ただ、空は晴れていて、星や月がよく見えた。

そんなときに、僕はふと思った。

「でも、僕だって、同じだ」

僕も今、仕事だけで生きている。金銭的な収入も、精神的な収入も、全ては会社に依存している。金銭的収入は、まあ問題ないだろう。でも、もう片方は? 僕は真嶋のようにならないと、果たして言えるのか?

僕は携帯を取り出し、電車の中で考えたこと――つまり『会社の消費』や『思考の迷路』『パズルの穴という自分の形』など――をメールにまとめ、真嶋へ送った。

気がつけば、車内アナウンスが、最寄り駅の駅名を読み上げていた。
僕は慌てて電車を降り、駅を出た。

答えが欲しかった。あるいはヒントでもよかった。それでなくても、とにかく何か言葉が欲しかった。彼がメールに返信をくれれば、それがそのまま答えへと繋がる鍵になる気がした。

外は、さほど暑くは無かった。夏の暑さの残り香が残っている、そんな気がした。空の星は、相変わらず綺麗だった。

けれどなぜか、僕にはそれがよそ事のようにしか感じられなかった。

真嶋からの、メールの返信は来なかった。

そして、彼が退社を予定していた前日の、九月三十日。
真嶋は、交通事故で死んだ。

(続く)

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