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ロングボーダーの憂鬱 8 Better Together 1/3

 颱風シーズンは終わったはずだったのに、まるで迷い込んだいたずらっ子のようにそれは近づいてきていた。それも大型の颱風だった。まだ日本まではかなり距離があったのに、その週の中頃にはうねりが海岸に届くようになっていた。
 空を覆い尽くしているのは一面の雲。灰色のグラデーションが、輝いているはずの陽射しを隠すように空を塗りつぶしていた。眼に映るすべての景色がくすんで見える。海もまた鈍色に沈んでいた。
 ビーチブレイクを求めて、波に憑かれた人たちがそんな海岸に集まっていた。
 金曜日の朝。
 海もまた波に憑かれたひとりとして逗子海岸にいた。うねりが届きはじめていた頃はまだ膝あたりのサイズだったはずが、それから二日しか経っていないというのに胸から頭のサイズになっていた。風がうなりを上げて吹きつけてくる。
 サーフィンをはじめてから、このサイズの波にチャレンジするのははじめてだった。
 いつものボードを抱えて海を見たとき、怖じ気づいている自分に気がついた。何人ものサーファーが海に出ていたけど、きちんと波を乗りこなしているのはほんのひと握り。あとはただ波に巻かれて、そのまま波打ち際まで運ばれていた。
 うねりは気まぐれだ。
 ときおりオーバーヘッドの波がやってきていた。ボード上に腹ばいになって、この波を見上げたときの恐怖心は、経験をしたものでなければ解らないだろう。巻かれてしまうと頭上からとんでもない量の海水が落ちてくる。まるで弄ばれるようにその波で揉みくちゃにされてしまう。
 海はそんな経験をこれまで何度もしていた。だから、知らず知らず怖じ気づいてしまうのだろう。それでも、波に乗りたいという気持ちも、もちろん強く持っていた。そんな複雑な思いが海の足を鉛のように重くしていた。
 それでもなんとか気持ちを奮い立たせて海へ入ろうとしたそのとき、海のすぐ横を走り抜けて海へと向かう人がいた。
 長い髪を後ろでポニーテールにまとめている。赤のアクセントが入ったウェットスーツ。歳の頃は判らなかったけど、小柄な女性だった。
 そのまま走って海へと入っていく。ショートボードをスープ状になって打ち寄せてきた波の後ろ側に投げ出すようにして浮かべると、腹ばいになって、すぐにパドリングをはじめた。そこへ大きめのうねりが入ってきた。その女性はボードに捕まったままその波を乗り越えようとした。しかし、波の大きさが簡単には乗り越えさせてくれなかった。崩れ落ちてくる波の中を潜るようにして、その波を越えた彼女。
 次の波はさらに大きかった。そそり立つように押し寄せてくるその波を越えることができずに、敢えなくその女性は波に巻かれてしまった。
 そのまま波打ち際まで流された彼女だったけど、すぐに立ち上がると、またチャレンジをはじめた。
 波に挑む。
 寄せる波が彼女を岸へと追いやる。けれど、ひとつ波を越えた隙にパドリングして沖へと出ていこうとする。すぐに寄せる波がまた彼女を岸へと押し戻す。それでも沖へ出ようとパドリングをする。波間を沖へと進んでいく。また、波が寄せてきた。いままでになく大きなうねりだった。聳え立つように彼女の前に立ちはだかる。それでも前に進む。ただただ沖を目指して両手で水を掻く。
 まるで彼女を拒むように寄せてきた聳え立つうねり。越えようとする彼女をあざ笑うように、その頭上にしとどに海水が落ちてくる。その勢いに彼女はまた巻かれてしまった。海の中で揉みくちゃにされてしまったのか、しばらく彼女の姿を捉えることはできなかったが、やがてかなり岸に押し戻された波間に彼女の頭が見えた。
 海は詰めていた息をそっと吐いた。
 灰色の空、鈍色の海。強い潮風が人を拒むように吹きつけてくる。
 しかし、彼女はまたボードの上に腹ばいになると、諦めることなくパドリングをはじめた。海の身体全体に思わず力が入る。
 押し寄せる波。負けじと沖へ出ようとしてパドリングをする彼女。何度か押し戻されては、パドリングで進んでいく彼女。やがてまた大きなうねりがやってきた。さっき敢えなく巻かれた波と同じようなサイズだ。またもや聳え立つように彼女の前に立ちはだかる。それでもひるまずにパドリングをして、その頂点を越えようとする。さっきは越えられなかったその頂点からボードのノーズが突き出た。
 ──いける!
 思わず海の口から言葉が出てしまった。
 彼女はボードにしがみつくようにしながら前に体重をかけて、ようやくんその聳え立つうねりを越えることができた。
 ゲッティングアウト。
 さらにパドリングをして、やっとのことで波がブレイクするポイントまで出ることができた彼女。これで波と対峙することができる。その権利を彼女は勝ち取ったのだ。押し寄せる波に挫けることなく沖を目指していったから。何度巻かれても、何度押し返されても、それでもチャレンジしたから。
 ボード上にまたがって波を待つ。
 そんな彼女を見ていて、知らず知らず海は右の拳を強く握り締めていた。ボードを抱えている左手にも力が入る。唾を飲み込もうとしたけど、口の中が乾いていてうまくできなかった。
 灰色に塗りつぶされた空と波を睨みつけながら、大きく頷いて、足を出そうとしたとき、その肩を叩かれた。
 ろくさんだった。
「よう」
 吹きつけてくる風が、ろくさんの長めの髪を揉みくちゃにしていた。その風に負けないような大きめの声だった。
 けれどその顔はいつもの陽気なままだった。
「どうした?」
「なんだか波が凄くて」
 まるでなにかに救われたように海は口を開いた。
「まあまあじゃないか」
 ろくさんはそういうと嬉しそうに笑った。
「ええ、でも……」
 海は言い淀んだ。
「ちょっと腰が引けてるか?」
「そうじゃないけど……」
 図星だった。
「さっきの彼女、見てただろ。あそこまで手子摺ることはないんだろうけど、でもあのチャレンジ精神は立派だよな」
 そういってろくさんは海の横顔を見た。
 海は鈍色の波間でうねりを待っている彼女を見ながら、しっかりと頷いた。
「バンザイパイプラインって知ってるか?」
「え?」
「オアフのさ、ノースショア」
「あ、YouTubeで見たことがあります」
「YouTubeか。いま頃は世界中のどのポイントでも見られちゃうから参っちゃうよな。おれが若い頃はそんな情報がなくて、雑誌探したり、写真見せてもらったり」
 ろくさんはそういうと苦笑した。
「あそこへ初めていったとき、そりゃまぁビビった、ビビった」
「ろくさんでも?」
「海岸で見たとき足が震えてた」
 そんなろくさんを海は意外そうに見た。
「海岸から見てもその波のでかさが尋常じゃないことがわかる。ありゃ、ビル五階ぐらいだなとか、もうちょっとでかいか、みたいな感じだ」
 そういってろくさんは海の眼を見た。
 海はただ黙って頷いた。
「そんなサイズなのにさ、地元の高校生とかが平気で入っていくんだ。プロの卵でもない、ふつうの高校生がだぜ。ありゃ、ぶっ飛んだね」
「どうしたんですか?」
 海の質問にろくさんはただ苦笑して答えた。
「だって引き下がれないじゃん。わざわざ日本から出張ってきて、波のサイズ見て、そのまま回れ右じゃさ、あまりにも情けないだろ」
「でも……」
「いいか、だれだって怖いときは怖い」
「はい」
「でもな、そのときに、その怖さを忘れる奴はただのバカだ。そうじゃなくて、その怖さをしっかりと見つめながら、それでも海へ入るんだ」
「海へ……」
「だってサーファーだもん」
 ろくさんはそういって海の肩をやさしく叩いた。ボードを抱え直すと、なんの衒いもなくそのまま海へと入っていく。
 海はその後ろ姿をただ黙って見つめた。
 打ち寄せてきた波のすぐ後ろに抱えてきたボードを浮かべると、ろくさんは素早く腹ばいなり、すぐにパドリングをはじめた。そこへ波が寄せてくる。ろくさんはボードを立てるようにして寄せてきた波にそのままノーズを越えさせると体重を移動させてあっさりと越えていった。
 すぐにパドリングをして沖へと向かう。次の波がやってきた。ろんさんは腕を伸ばして、ボードと身体の間に隙間を作ると、そこへ波を流し込むようにしてまるでやり過ごすようにして越えていく。
 またすぐにパドリングをしていく。もうずいぶん沖へ出ていた。さらにそそり立つような波がやってきた。今度はろくさんはボードごと引っ繰り返って潜り込むようにして波を越えていった。
 気がつくとろくさんはボードにまたがって波を待っていた。
「すげっ……」
 海が唸っていると、ろくさんはやってきたうねりを綺麗に捉えて、波に乗っていた。
「やっぱり、ろくさんだ」
 オーバーヘッドのサイズの波を、ろくさんはいとも簡単に乗りこなしていた。しかも、とても気持ちよさそうに。その斜面を駆け下るとボトムターンして、また駆け上がる。
 いつもはかなり岸に迫るまで乗っているろくさんだったけど、今回は途中でプルアウトすると、またすぐに沖へと向かっていった。
 そそり立つ波をひとつふたつ簡単に越えると、またすぐにうねりを捉えて波に乗る。
「そうか、岸まで戻るんじゃなくて途中で降りれば、越える波も少なくて済むんだ。さすがだな」
 海はろくさんのライディングにしばらく見とれていた。
 やがて見ているだけは飽き足らなくなって、海へと歩み出した。
 ──怖さを忘れるんじゃなくて、しっかりと見つめながら海へ入る。サーファーだもんな。

「あっ、駄目!」
 なんとかその大きな波を越えた瞬間、真夏は次に寄せる波までの落差を思い知らされた。越えた波が大きければ大きいだけ、またその落差も大きい。
 最初はサーフスタンスで立ったまま波を越えることができていたけど、すぐに立ったままでは越えられなくなり、ボードの上に正座して越えた瞬間だった。
 真っ逆さまに海へと落ちてしまった。すぐに次に寄せてきた波が落ちてきて真夏はその衝撃で揉みくちゃにされた。上も下も右も左も判らない状態でただ翻弄される。海中で弄ばれたまま、またつぎのうねりが落ちてきたようだった。さらに真夏は揉みくちゃにされる。
 ──息が……。
 眼を開けてもどっちが上なのかまったく判らなかった。身体に知らず知らず力が入り、固くなっている。まるでなにかに掻き回されたような海水の勢いに真夏は海の中でただ巻かれた。
 ──あっ、パドル……。
 握っていた手に力が入らなくなり右手からパドルが離れていった。
 そのとき、ふいに全身から力が抜けた。すると不思議なことに身体が浮かびだし、すぐに海面に顔を出すことができた。
 真夏は慌てて回りを見て、まずパドルを探した。思いの外、近くに浮いていた。慌ててそれを握ると、右足首に巻いていたリーシュを引っ張った。手応えがあってボードを引き寄せることができた。両手をボードに乗せて上体を預けると、沖を見た。
 すぐそこまでうねりがやってきていた。大きな波がまた真夏の頭から落ちてくる。今度は、ボードにしっかりとしがみついたまま、海中で巻かれた。ボードの浮力に助けられて、すぐに顔を海面に出すと、ボードに腹ばいになった。
 睨みつけるように沖を見る。まだ次のうねりまでは間があった。真夏は呼吸を整えると、右足首のリーシュコードを確かめ、パドルを右手で握り直した。いったんボードの上で正座して、もう一度、沖を見る。うねりがやってきていた。サイズはさっきと同じくらい大きい。
 それでも真夏はボードの上に立ち上がった。ボードの方向を変えながらそのうねりにタイミングを合わせていく。足のポジションをサーフスタンスに変えて、さらにパドルを漕ぐ。ボードはすでに岸の方を向いていた。
 後ろからそのうねりの波音が聞こえてくる。それまで聞こえていたはずの風の音がその波音にすっかり消されていた。まるで唸りを上げるようにうねりがやってきた。ボードの後ろがふいにぐいっと、真夏の予想以上に押し上げられた。真夏はそのまま腰を落として、ボードに体重をかける。ここで後ろへ体重をかけてしまうと、後ろ向きに引っ繰り返ってしまう。そうやっていままで何度も真夏は波に巻かれたことがあった。
 ──負けないんだから!
 真夏はそう独りごちて、さらに腰を落とす。
 ふいにボードが走り出した。それもかなりの急角度だった。
 ──よし!
 真夏が波を捉えた。
 うしろからの波は頭を越えるサイズ。そのうねりが生み出した斜面を真夏が滑っていく。いままで聞こえていたはずの唸りを上げるような波の音もなにもかもがすっ飛んでしまったようだ。ボードに波が激しくあたる音だけが聞こえてくる。
 足下でボードがまるで暴れるように激しく跳ねる。
 真夏はパドルを操作して、波を駆け下っていった。底まで下ったところでターン。ボトムターンが綺麗に決まった。そのまま駆け上がっていく。リップを舐めるようにして、また駆け下る。
 もう一度ターン。
 今度はすこし駆け上ったところで、またターンをした。岸がもう目の前だった。
 真夏は込み上げてくる歓喜にただただ震えていた。
 岸の手前でプルアウトした。そのままボードから降りると、ボードを抱えて岸へと上がっていった。両足がガクガクと震えていた。パドルを持つ右手にも妙に力が入らなかった。
 よたよたとまるで幼児のように岸に上がると、そのままペタンと腰を下ろした。あまりの喜びに身体中から力が抜けてしまったみたいだった。
 ──やった……。
 そう独りごちてから、今度は大きく口を開いた。
「やった! 乗ったぞ!」
 真夏は座ったまま拳を突き上げるようにしてガッツポーズを繰り返した。
つづく

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逗子を舞台にした、熱く、そして切なく、心に沁みる物語。ぜひご愛読ください。

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スキをありがとう。これからも心に触れるような作品を作っていきます。
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夕焼けフォトグラファー / 物書き / デジタルコンテンツデザイナーの癌サバイバー、竹井義彦です。 逗子の海の写真や、オリジナルの小説をメインに公開しています。よろしくお願いします。
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