ロング_NOTE

ロングボーダーの憂鬱 3 Every Breath You Take 1/3

 お盆を過ぎても逗子海岸は海水浴客で賑わっていた。砂浜の至るところにビーチシートが広げられ、空いている場所を探すのが難しいほどだ。海岸全体にさまざまな人の声がこだまして雑然としていた。
 強めのオンショアが、荒めの波とともに海岸へと吹いている。いつもよりも大きめの潮騒が海岸全体に響いていた。蒼い空と碧い海。強烈な陽がいつものように煌めいている。
 午後三時。
 その陽射しはまるで時間を忘れたように強烈に照り続けていた。
 ──暑い……。
 湿気をたっぷりと含んだ潮風が海から吹きつけてくる。そのたびに美里の前髪がまるで弄ばれるように揺れた。掻き上げても掻き上げても風が吹きつけるたびにその前髪が顔にかかる。美里は諦めてその前髪を耳の上にかけた。
 淡いピンクの麻のシャツに柄物の巻きスカート。それにすこしだけヒールのあるサンダル。組んだ白い素足がスカートの裾から覗いていた。
 大振りのオーバルタイプのサングラスからその表情は伺えないけど、大きくついた溜息が、決してリラックスしているわけではないことを教えてくれた。
 その海の家「North Shore」は馴染みの店だった。毎年この店を訪れるのを美里は楽しみにしていた。
 ──嫌になるぐらい暑い……。
 なのに今日は溜息ばかりだった。
 海岸中央から西浜の方へすこし歩いたところにある、お洒落なカフェを思わせるような海の家だ。入り口近くに大きなカウンターがあり、あちこちにヤシの植木が並んでいる。サーファーの聖地ともいえる場所がそのまま店の名前になっていることから判るようにオーナーはばりばりのサーファーだ。あちこちにサーフボードが並べられているのはもちろん、ハワイにちなんだインテリアが飾られている。
 手前側は砂浜にそのままリクライニングチェアとサイドテーブルが並び、その後ろにはカフェテーブルと椅子が置かれていた。さらにその奥にはきちんとした床があってソファー席が並んでいた。屋根は椰子の葉で葺かれている。
 美里はテーブル席でひとりカクテルを呑んでいた。
 半分ほど中味が残っているグラスは水滴で濡れていた。
「退屈、してる?」
 美里の背後から声がかかった。
 美里はすこし気怠そうに振り返った。
 小菅貴大だった。短く刈り込んだ髪、大きめのクロスのピアスが両耳に揺れている。お世辞にもスマートとはいい難い、やや太めの身体にゆったりとしたアロハシャツを纏い、サーフパンツを穿いている。この店、North Shoreのオーナーだった。
「スガちゃんか……」
「なんだかつれない返事」
 そういいながら小菅は隣の席に座った。
「なに飲んでるの?」
 覗きこむようにして訊いた。
「いつもの……」
 美里は薄く笑いながら答えた。
「マティーニ。好きね。もしかしてビーフィーターベースでステアした?」
「まあね……」
「あ、加奈ちゃん、あたしに生、お願い」
 小菅は近くにいた店員の娘に声をかけた。オレンジ色のビキニにオリーブ色のTシャツを着たその娘はただ頷くとカウンターへ向かった。無造作にまとめた長めの髪が歩くたびに揺れた。
 テーブルの上にビールが置かれると小菅はグラスを持ち上げて、美里のグラスに軽く合わせた。
「乾杯」
 ちいさな声でそういうと、ビールに口をつけた。
「いい冷え具合だわ」
 そういってひとり頷いた。
「ミリ、なんだかナナメってるわけ?」
 美里の顔を覗きこむようにして小菅はいった。
「だって、暑いんだもん……」
「いやねぇ、夏だし、海の家だし。暑いのはいいことじゃない。だからビールも美味しいし」
 小菅はそういって嬉しそうに頷いた。頷くたびにピアスが揺れる。
 美里はなにげなくそのクロスをモチーフに波を組み合わせたデザインのピアスをじっと見つめていた。
「それ、去年のだっけ?」
 そういって首を傾げた。
「やだ、自分でデザインしておいて忘れたの? あたし、これ気に入ってるのよ。だから今年の新作はまだつけてない」
 美里はアクセサリー類をデザインして、いろいろな店に卸していた。基本的には海をテーマにした作品が多い。小菅がつけているピアスはもちろんだが、その他にはリングやブレスレット、ペンダントやブローチなども創っていた。
 辻堂の海へ抜ける道沿いにちいさなアトリエとショップを営んでいる。小菅とはもう十年近くの付き合いになるだろうか。そこに店を構えたときにはじめて会った。美里のなじみ客、第一号といっていいだろう。サーフィンからの帰り道に小菅がたまたま立ち寄って以来、お互いが馴染み客として互いの店を訪れ合っている。
 小菅は毎年、美里の新作を買ってくれる大切な客でもあった。
「それで、なにがミリのハートをナナメにしてるわけ?」
「斜めになってるわけじゃなくて……。ただ、なんとなくね。気が乗らないというか、夏の暑さが堪えるわけよ。この歳になると」
 美里は溜息といっしょにいった。
「その溜息、重そう」
 小菅はからかうように笑いながらいった。
「もう、スガちゃんたら」
 美里も釣られて笑った。
「あと、この風も」
 そういいながら美里は吹きつける潮風で乱れた髪をまた掻き上げた。
「サーマル」
 小菅があっさりと答えた。
「サーマルか……」
「ねぇ、意味解ってる?」
 小菅が疑うように美里の顔を見た。
「なによ、これでも若い頃は海に出てたんだから」
「そうか、ミリもやってたんだっけ、サーフィン」
「まぁね」
 そういいながら美里はグラスに手を伸ばして、残りを呑み干した。
「どうする?」
 小菅の言葉に美里はすこしだけ迷った。しばらく小菅の顔を見ていたが、やがてカウンターの方へ向かって声を上げた。
「加奈ちゃん、お替わり。同じやつね。うんとドライな感じにして」
 加奈がやってきて、カクテルグラスをテーブルに置くと、美里はありがとうといいながらそのグラスにすぐに口をつけた。
「ねぇ、若い頃っていった? さっき」
 両肘をテーブルについてその上に顔を乗せるようにして小菅が美里に訊いた。
「え? そんなこといったっけ?」
「いったじゃない。若い頃は海に出てたって」
 小菅は探るような目つきで美里を見た。
「そっかー。若い頃か……。そうなのよね、あの頃は若かったの。たっぷりと若かったのよ」
 美里は椅子に凭れるように座り直すと胸の前で腕を組んだ。
「なにその、たっぷりと若いって」
 小菅が笑うようにいった。
「なんとなくそんな感じってしない? 加奈ちゃんなんてピチピチでもうたっぷり若いでしょ」
「あら、加奈ちゃんか。そろそろいい歳になりつつあるけど。あの娘、今年で何年目だっけ……」
 小菅は首を傾げるようにして言葉を切った。
「そうなの? わたしから見たらたっぷり若い。この頃ね、しみじみとおばさんになったと思うことがあるの。ピアスデザインしてるときとか、あと若いお客さんの相手してるときとか。なんか感覚がちょっと違ってるかなって」
「ふ~ん」
 小菅はただ相づちを打った。
「この前だってろくさんの店で、あの店の真夏ちゃんって知ってる?」
「知ってる、知ってる。あの娘バリバリのサッパーなのよ。よく朝、海で見かける」
「そうなんだ、あの娘SUPやってるんだ……」
 美里は真夏の顔を思い浮かべながらいった。
「それで?」
「この前ね、わたしの名前はカタカナのミサトなんだっていうのよ。漢字とかひらがなとかカタカナとか、その人によって名前のイメージが違うみたい。そんな感覚わたしにはないもの。で、思ったの。歳が違うのかって」
 美里の巻きスカートが潮風に煽られて軽く捲れた。白い素足が見えた。美里はそのまま軽く抑えると、ごく自然に足を組み替えた。
 濃い目のサングラスをすこしだけずらして美里はその隙間から砂浜を眺めた。若い子たちで海岸は賑わっていた。カップルはもちろん、男だけとか女だけのグループも多い。みんなの笑顔がなんだか美里にはすこしだけ沁みた。
 ──あんな笑顔ができていたのはいつ頃までだっけ?
「なにそれ。ミリってカタカナのミサトなんだ」
 小菅が真顔で訊いた。
「なんか面白いでしょ」
 美里は視線を戻すと、軽く頷いた。
「あたしはどうなんだろう?」
 小菅は首を捻るようにしていった。
「え、スガちゃんはスガちゃんだし、どうなんだろう……」
「真夏ちゃんに訊いてみようかな、あたしの名前はカタカナ、ひらがな、それとも漢字って。ほら、あたしの名前、漢字だとみんなコスゲって読むじゃない。そのたびにコスガですって言い直すの面倒なのよね。いっそ、ひらがなにしちゃうか。こすがたかひろって」
 小菅は軽く笑いながらいった。
「スガちゃんったら」
 美里も合わせるように笑った。
「でもね、歳って、考えても仕方ないのよね。時間止めるわけにはいかないし、勝手にやってきて、勝手に過ぎていって気がついたら一年が経って、歳がひとつ増えていく。なんかこのまま放っておいたらどんどん増えていって、そして気がついたら皺だらけになっちゃうのかしら……」
 美里はそういって、今度は大きく溜息をついた。
 サングラスを外すと、また海岸を見た。笑い声が聞こえる。なんだか、その声を聴いていると美里はどこか違う場所に独り取り残されたように感じてしまう。
 ──そうなのよ、独りぼっちなのよ……。
 そんな美里をしばらく黙って見ていた小菅は片方の眉を上げると口を開いた。
「違うでしょ。あなたの溜息は歳のことなんかじゃなく、ズバリ、男よ。独り身がすこしずつ沁みてきたのね。それでナナメってるのよ」
 小菅は決めつけるようにいうと、じっと美里の顔を見つめた。
「あたしと一緒……」
 そう付け加えて、くすりと笑った。
「違うって」
 美里は思いっきり首を横に振った。
 カクテルグラスに手を伸ばすと、そのまま呑み干した。
「加奈ちゃん、もう一杯お願い。さっきと同じぐらいカリカリのドライでね」
 カウンターに向かって声を上げるとテーブルの上で手を組んだ。その手をじっと見つめる。綺麗にネイルアートされたほっそりとした両手。それぞれの指が違う色でカラフルに塗られている。散らしたラメがアクセントになっていた。人差し指と薬指にはちいさなネイルストーンがあしらってある。左手の薬指のネイルストーンをじっと見ていると、すぐ横にカクテルグラスが置かれた。
 美里は顔を上げて加奈の顔を見て口を開いた。
「ありがとう」
 ──やっぱりたっぷり若いわよ、加奈ちゃんだって。
「どういたしまして。カリカリにしてありますから」
 加奈は笑顔で頷いた。
 美里はグラスの中からオリーブの実を指先でつまみ出すと、そのまま囓った。
「ねぇ、いいから吐いちゃいなさいよ。認めたらすっきりするんだから」
 軽く睨みつけるようにして小菅がいった。
「いいじゃない、どうだって。もう今日は呑んじゃうんだから」
 美里はそういうなり、またグラスを呑み干した。
「抱かれたいのよ、あなたは。あれ? 抱きたいのかな。ねぇ、どっちよ」
 小菅はからかうようにいった。
「ひょっとして、もうずいぶん、してないでしょ」
「なに、そのいい方」
 美里が逆に睨み返した。
「加奈ちゃん、もう一杯」

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