ロング_NOTE

ロングボーダーの憂鬱 5 Wish You Were Here 1/3

 ──やっちゃった……。
 美奈海は走りながら心の中で舌打ちしていた。
 ピンク色のランドセルがそのちいさな背中で揺れている。田越川の横を走りながら小学校へと急いでいた。心なしか頬を膨らませながら、必死に走った。汗が滲んでやがてその額には玉のような汗が浮かんでくる。けれど、そんなことは構わずに走った。
 ──遅刻しちゃう……。
 朝、いつものように起きてベッドから出たつもりだった。ろくさんの、朝だ起きろの声をしっかりと聞いた覚えはあった。そして起きたはずだった。でも……。
 改めて眼を醒ましてみると静まりかえった部屋で寝てしまっていた。そんなに長い時間ではなかった。けれど、小学校に間に合う時間をすこしだけ過ぎていた。
 急いで着替えて一階のダイニングを覗いた。いつもの朝と同じように、美奈海の朝食としてご飯を盛った茶碗と味噌汁をよそったお椀が並べられていた。すこしだけ冷めていたかもしれない。
 それを食べている余裕はなかった。
 ろくさんの姿がないことだけ確かめると、美奈海は家をただ飛び出した。
 ──そうだよね、あいつは海だ。わたしを起こしてそのまま海へいった。寝過ごしたのはわたしだ、わたしがいけなかったんだ……。
 朝の様子を思い出して美奈海は自責の念に駆られながら走り続けた。息が切れるのも構わず走った。
 やがてその眼に小学校が見えてきた。静まりかえった校庭。もう授業がはじまっちゃったんだろうか。そんな心配をしながら美奈海は小学校の門をやっとのことで潜った。

 今日の波はちょっと手応えがなかった。そんなことを思いながらろくさんは昼過ぎに家路についた。東浜から田越川沿いに渚マリーナの横を歩いて富士見橋を渡る。バス通りを突っ切って緩やかな坂道を上りはじめたときにスマホが鳴った。
 画面を確認したが、見たことのない番号からの電話だった。
「はい、木崎です」
 スマホの画面にタッチするとろくさんは探るように答えた。
「木崎美奈海さんのお父様の携帯ですか?」
 すっきりとした女性の声だった。
「ええ、美奈海の父ですが、美奈海がなにか?」
 ろくさんは心がざわつくのを抑えるようにして尋ねた。
「わたし、美奈海さんの担任の勅使河原といいます。じつは美奈海さん、気分が悪くなったようで、いま保健室で休ませています。今日はそのまま帰宅させた方がいいかと思いまして、どなたかに迎えに来ていただきたいんです」
「わかりました、すぐにわたしが」
 ろくさんが答えると、一瞬途惑ったような間があってから勅使河原が続けた。
「あの、本人からの希望で、できたら女性の方に迎えに来てもらいたいそうなんです」
「え?」
 ろくさんは一瞬戸惑い、声を切った。
「女性といっても、わたししかいないんですが……」
「はい、ご家庭のご事情については承知しているんですが、本人がどうしてもと」
 その声音から相手を気遣いながら話していることが、ろくさんにも伝わってきた。
「お知り合いに館野さんという方がいらっしゃるとか。美奈海さんができたらその人に来てもらいたいといっております」
「ミリ、いや美里ですか、館野美里」
 ろくさんは確かめるように訊いた。
「ええ、その方です。美奈海さんのことをよく知っていらっしゃるそうですね。本人ができたら、そうしてほしいと」
「解りました。連絡をしてみます。もし、彼女が迎えにいけないときには、わたしが伺います。それまで美奈海のことをよろしくお願いします」
 ろくさんはそういうと電話を切った。
 改めてスマホの画面を操作して住所録を開くと、美里のスマホの電話番号をタップした。なにをどう美里に説明したらいいのか、そんなことを考えながら呼び出し音を聞いた。すこしだけ間があってから美里が電話に出た。
「なに、ろくさん?」
 のんびりとした声が返ってきた。ろくさんはすこしホッとしながら美里に美奈海を小学校に迎えにいってもらいたいと話した。
 事情がよく判らないけど、気分が悪くなって保健室で休んでいるらしいこと、それから本人の希望で美里に迎えに来てもらいたいらしいと伝えた。
 美里は詳しいことをあまり聞かず、ただひと言、わかったわとだけいって電話を切った。
 なにがどうなっているのか。ろくさんはただ美奈海のことが心配でならなかった。詳しい事情が判らないだけに、どうしていいのかそれを考えることができなかった。
 静まりかえったリビングのソファに腰を下ろしたまま、ただふたりの帰りを待つことにした。ダイニングテーブルの上に手つかずの朝ご飯が残っていた。まったく食べた様子はない。朝、美奈海になにかあったことをろくさんに悟らせるようにご飯茶碗と味噌汁のお椀が残っていた。
 ろくさんはテーブルの上を片付けることもできず、何度も何度も腕時計で時間を確かめた。時間が経つのがこんなに鈍いことをはじめて知った。見直しても分針がさほど進んでいない。時計を見るたびに焦燥感だけがただ膨れあがっていく。
 窓の外からはまだ夏の暑さを持った陽射しがレースのカーテン越しに零れてくる。開け放した窓から吹いてくる風がそのカーテンを揺らす。
 また時計を確認した。まだ何分も経っていなかった。
 昼食を摂っていないことに気づいたけど、しかしまったく食欲は湧かなかった。ただ、美奈海のことだけを考えていた。風に揺れるカーテンがろくさんの苛々をさらに募らせる。
 やがて玄関のドアが静かに開く音が聞こえてきた。
 ろくさんは飛び起きるように立ち上がると玄関に向かった。階段の手前に美里が立っていた。美奈海がただ黙って階段を登っていく。
「美奈海……」
 ろくさんが声をかけようとしたところを美里がただ首を振って止めた。
「どうしたんだミリ……」
 美里はただ優しく微笑むとひとこと口を開いた。
「大丈夫だから」
 それだけいうとろくさんを押し戻すようにして、一緒にリビングへと歩いていった。
「ろくさんはなにも心配はしなくていいから。ちょっと様子見てくるから、戻ってくるまでここで待ってて」
 美里はそれだけいうと二階の美奈海の部屋へ向かった。
 ろくさんはなにもいうことができず、ソファの前でただ立ち尽くしていた。
 どれぐらい時間が経っただろう。ろくさんはそこにじっと立ったままだった。やがて美里は戻ってくると、その姿を見て、くすりと笑った。
「ミリ、笑いごとじゃないだろ?」
 ろくさんはそういうと美里の腕を掴んだ。
「大丈夫って、いったでしょ」
 美里はろくさんの手をそっと振りほどくと、そのままソファに座った。ろくさんも訳がわからず、それでもそのまま立っているわけにもいかず誘われるように美里の隣に腰を下ろした。
「知識としては知っていても、いきなりソレになっちゃうと驚いちゃうものなのよ。だから大丈夫」
 美里はそういうとろくさんの顔を見た。
「どういうことだ?」
 ろくさんは探るように美里の顔を見つめた。
「だから美奈海ちゃんもちょっと驚いただけ」
「さっぱりわからない。どうなってるんだ?」
 ろくさんがさらに問い詰めるような眼でいった。
「もう、鈍いのね。あの日が来ちゃったのよ、美奈海ちゃん。わかる? 女性につきもののあの日。はじめてのことで吃驚しちゃったんだわ」
 美里はそういって微笑んだ。
「あの日?」
 ろくさんはまだ首を捻ってた。
「ねぇ、鈍いにもほどがあるわ、ろくさん」
 そういうと咎めるような眼で美里はろくさんを見た。
「だから、あの日。男には絶対に来ないし、男には絶対に解らないあの日」
 美里はそういうとじっとろくさんの眼を見つめた。
「え? あの……、あれ? ああ……、あの日……」
 ろくさんはようやく合点がいったように頷いた。
「そう、だから今日は静かにしておいてあげて。どんな顔して、父親と対したらいいのか途惑っちゃってるのよ。可愛いところあるじゃない」
 そういって美里は二階の方を見上げた。
「そんなものなのか?」
 ろくさんはまだなにか納得のいかない顔のまま首を捻っていた。なんだかひとり取り残されたような気にもなる。
「だから男には解らないって。解らないことを考えても仕方ないでしょ。ろくさんいつもいってるじゃない、来る波に乗るだけだって。どんな波が来るのか解らないのに、それを考えて身構えてもしょうがないって。それと同じ。どんなに考えても男には一生解らないから」
 美里は愉快そうに笑った。
「今日はわたしが面倒見るから大丈夫よ」
 美里はそういって頷くとろくさんの肩をそっとやさしくなでた。
 
 その日、Rough Boyは開店してすぐに混んだ。いつもは夜になってから混みはじめることが多かったけど、この日は陽が暮れるのが待ちきれないようになじみ客が押し寄せてきた。
 忙しく立ち働く方が今日のろくさんにはちょうどよかったのかもしれない。美奈海のことは美里に任せて、余計なことはなにも考えたくなかったからだ。
 ひとり娘がすこしずつ大人へと近づいていくことは判ってはいたけど、しかしそれを実感するのはもうすこし先のことだと思っていた。だから今回のことは、美奈海本人にとってはもちろんだけど、ろくさんにとっても少なからず衝撃的なことではあった。
 だからこそ忙しくて余計なことを考えることができないほうがありがたかった。
 開店早々押しかけてきた一団が店を出ていき、ほっとひと息ついたところに、またグループの客がやってきた。
 ドアが静かに開くと、中の様子を伺うようにして覗いている女性の顔が見えた。空いたテーブルがあることを確認すると、いったんその顔が引っ込んで五人の客が入ってきた。はじめて見る顔だった。
「こんばんは」
 真夏が元気な声をかけた。
「あの、五人なんですけどいいですか?」
 さっき顔を覗かせた女性が口を開いた。
「どうぞ、奥のテーブルが空いてますから」
 ろくさんはそういいながら女性の顔を見た。
 肩よりも長めの艶やかな髪。深めの紺色の上下。下はパンツ姿だった。踵の低めのヒールを履いている。カウンターの中にいるろくさんをじっと見つめて口を開いた。
「足りない椅子は動かしても平気かしら」
 聞き覚えのある声だった。
「真夏ちゃん、テーブル用意してあげて」
 そういいながら、ろくさんも女性に笑顔を返した。どこで聞いた声だったのか思い出そうとしたけど、すぐには判らなかった。
 その五人は椅子の数が揃うと思い思いに腰掛けた。男性三人に女性がふたり。比較的ラフな服装をしている男性三人に比べて、女性の方はふたりともカジュアルながらきちんとした装いだった。
 どんな関係なのかろくさんは想像してみたけど、考えはまとまらなかった。
 さっきの女性がカウンターのところへ歩み寄ってきた。
「ビールを五つ、いただけますか」
 そういって首を傾げた。流れるようなストレートヘアが顔にかかると、首を傾げたままその髪を手でかき上げるようにして耳にかけた。
 その仕草をろくさんはじっと見つめてから頷いた。
「生でいいですか?」
「ええ、お願いします」
 真夏がビールサーバーからビールを注ぎはじめた。
 その女性がまだカウンターにいるろくさんを見ていた。
「ほかになにか?」
「美奈海さんは、いかがですか? すいません、わたし担任の勅使河原です。勅使河原梨沙といいます。すこし気になってお話をお伺いしたかったんですが、お宅にお邪魔するのもなんだか違うような気がして、同僚が誘ってくれたので、それなら直接お店にと思って」

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