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指導において期待とは

子どもの頃から幾度となく「期待をしている」と言われた経験がある筆者ですが、それを言われる度に違和感を覚えてきました。そこで今回は指導における「期待」について少し考えていきたいと思います。

まずは期待という言葉の定義について調べてみるとこうあります。

期待・・・あることが実現するだろうと望みをかけて待ち受けること。当てにして心待ちにすること。

勿論、「人事を尽くして天命を待つ」というように自分が努力をした結果に対して期待をするというのは自分自身で完結している行為であり、誰にも迷惑をかけていません。これは好きにすればいいと思います。

しかし、人→人に対してかけられる期待はどうでしょうか。

例えば、スポーツ観戦などで選手に期待をして、その結果、喜んだり落ち込んだりするのはよく見られる光景ですし、この場合、人(観戦者)→人(スポーツ選手)に対する「期待」という感情の接続はそこまで密接でもありません。興業として成立しているくらいですし、好きにすればいいと思います。(それでも私はこういったスポーツ観戦の雰囲気が好きではなく、実際スポーツ観戦は殆どしません。)

一方で指導において、指導者→指導を受ける人への期待は、指導者の指導を受ける人に対する期待という「利己」を押しつけていることに他ならないと思っています。この場合スポーツ観戦の場合と違い、人と人との関係性が密接であり、ましてや「結果」という一度きりのものを求められている状況下で、「期待」という指導者の「利己」を押しつけられて、純粋に自分のために頑張れる人がいるのでしょうか。ここでの指導は、指導者が「受け身」になってしまっています。指導は能動的に行うものです。逆もまた然りです。

人間は自分のために物事を行う時が、最もやる気に満ちあふれ結果に繋がるような行動を出来ると思っています。他人のために何かをするといっても、結局は自分の自己重要感などを満たすことに繋がっています。そこに指導者から「誰かのため」という意味を含む「期待」を押しつけるとかえって指導を受ける側のパフォーマンスが下がってしまうのではないでしょうか。指導を受ける人は指導者のために頑張っている訳ではありません。

少ない人生経験ですが、私も人から期待をされる経験がありました。しかし挙げ句の果てには、もう期待をしないなどといって見捨てられるようなこともありましたし、はっきりいってそのような指導者の行動は「無責任」だと思います。

指導において重要なのは指導する側のその分野の実力があることは大前提としてあると思いますが、いかにして指導を受ける人のモチベを引き出すかだと思っています。例えば、始めの出来が悪いからとってセンスが無いといって邪険にするのは論外だと思っています。

ここでゲームの例えをだします。FPSなどのゲームをしたことがある人はご存じかもしれませんが、その手のゲームは始めはBot(実力が弱めに設定されている)との対戦だったり、初心者同士の対戦だったりするので、初心者でも相手に勝てるという「成功体験」が積めます。そして、ランクマッチなどで、少しずつ自分の実力が上がっていくにつれて対戦相手の実力も上がっていき、徐々に自分の実力を上げていくことが出来るような仕組みになっています。しかし、ゲームで始めに猛者にズタズタにされたりセンスがないといわれてしまったら、誰でもそのゲームに嫌悪感を抱いて辞めてしまうのではないかと思います。

現実世界での指導でも同様に、初めの段階で心を折るような指導をしている人がよく見られますが、そんな環境で自分のために頑張れるでしょうか。期待の話に戻りますが、勝手に期待をかけられて結果がだめだったら幻滅され捨てられるようなことをされると、その人が自信を失ってその後の人生を棒に振ってしまう可能性も考えられます。

別に私は人生において指導の経験があるわけでもありませんので大したことはいえません。しかし、今回の話は学校教育、子育てにも関わりそうな話ですので書かせていただきました。どのような指導が最適なのかは、いつか指導者側になる立場を想定して模索中です。





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