第5章 巨木信仰と縄文

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樹木の記憶

 岩手県陸前高田の海岸線は、かつて見上げると首が痛くなるほどの高さの松が7万本も並ぶ景勝地だった。3.11のあの日、巨大津波はその松をことごとくなぎ倒し、沖へと運んでいってしまった。後には、樹高35mのひょろ長いたった一本だけが残った。

 青い海と白い砂浜そして輝く緑が鮮明なコントラストを描いていた海岸は、無残ながれきに埋め尽くされ、どうしたわけかその一本の松だけが、ひとり取り残された案山子のようにぽつねんと立っていた。

 いったいどんな偶然の積み重なりが、7万分の1の確率でこの松を救ったのかわからないが、壊滅した松林の中で、たった一本でも生き残ったことが、どれだけ陸前高田の人たちだけでなく東北の人たちすべてを勇気づけたか知れない。

 その「奇跡の一本松」も、上部のほんの少しだけの枝を残して津波に洗われ、根回りの土も海水が染みこんで、そのままではせっかく7万分の一の確率で生き残った命が失われてしまうのも時間の問題だった。

 さっそく、東北復興の象徴ともいえるこの松を救う活動が始まった。

 根回りの土が入れ替えられ、樹皮が剥がされた幹を養生する。その養生の作業を受け持ったのが、TMCA(ツリーイング・マスター・クライミング・アカデミー)の東北ブロックの面々だった。TMCAは、欧米のアーボリスト(樹木の剪定などを行う技術者)が使う高い樹への登降技術を使って誰でも手軽に木に登れる「ツリーイング」というアクティビティを普及させている団体で、ぼくもその一員でありインストラクターとして体験会などを運営している。このツリーイングと5年ほど前に出会い、気がつけばインストラクターとなり、仕事として高木剪定までするようになっていた。

 「木登り」といっても、枝を掴んでよじ登ったり、日本の林業家のようにブリ縄(腰縄)を使って幹をよじ登るわけではない。高い枝にロープを掛け、そのロープに体重をあずけて登降するもので、テクニックとしてはケービングに近い。ロッククライミングの経験もあるので、最初はそのテクニカルなロープワークに惹かれ、さらに高木剪定に取り組むようになって、樹の個性に合わせて複雑なロープワークを使いこなしたり、微妙なバランスを必要とする体の使い方などが面白く、病みつきになってしまった。そして、ツリーイングの経験を積めば積むほど、樹が身近な存在となっていった。

 樹木はその種類によって、また個々のコンディションの違いによって、縋り付いたクライマーに伝えてくる情報が異なる。樹皮の柔らかさ、葉や枝のつき方、風に対するしなり具合から伝わってくる根の張り具合……それらが、樹によって明確に異なっている。同じように見えても、樹に身を委ねると、ある樹はしなやかで生命力に溢れ、ある樹は張りを失って弱っていることがはっきりとわかる。さらに、樹の上で風に揺られていると、樹を通して大地のコンディションまでが感じられる。

 アクティビティとしては、ロッククライミングも同系列といえるが、ロッククライミングの場合は難度の高いルートを自分が持てるスキルの全てをかけてクリアするストイックな楽しみが中心で、岩と一体になって何かを感じるといった要素はない。

 ツリーイングの場合は、生き物である樹木の性質やコンディションを感じ取りながら、なるべく樹木の負担にならないように遊ばせてもらい、ときには余計な枝を剪定して樹木のケアをしたりするうちに、樹木と精神的に通じ合っている感覚を持つようになる。さらに、樹木とともに周囲の自然を感じ、それを仲良く味わっているように思えてくる。

 大木に取り付き、その太く逞しい枝の上でのんびり佇んでいると、吹き寄せる風が様々なものを運んでくる。遠くの鳥の鳴き声や子供たちの声、クルマや鉄道の音。さらに微かな花の香りや、遠い山の雪の冷たさや、遥かな南の海の温もりまで感じることができる。樹は大地に根を下ろしてじっとしているので、我々のように広い世界を飛び歩いて見聞することはできないが、風が運んでくるそんな情報を繊細に受け止め、それを柔らかい組織の中に記憶しているのではないかと思えてくる。

 東北の仲間が必死にケアする陸前高田の奇跡の一本松も、寛文7年(1667)に他の松とともに美しい海岸に植えられ、育っていく過程で、海岸や街並みが時代とともに変化していく様や3.11の前に幾度か襲ってきた津波を記憶していたのではないだろうか。そして、3.11に間近で大波に攫われた7万の仲間や、陸前高田の犠牲者たちの様子や思いをしっかりと記憶に留めたのではないか。奇跡的に残ったこの松をなんとか生き延びさせたいと思うのは、単なる大災害の象徴という以上に、奇跡の一本松が3.11を含めた様々な故郷の記憶をその内に刻んでいることをみんなが感じ、これからも生きて、様々な思い出を年輪に刻んでいってほしいと願うからではないだろうか(**陸前高田の奇跡の一本松は、残念ながら地震による地盤沈下で根回りが海水に浸り、枯れてしまった。しかし、この木から採られた芽を育てる試みが行われたり、形を残したまま保存することが検討されている)。

 ベテランの樹木医の中には、樹が秘めた超自然的な力を敬い、そして畏れ、いつも数珠を携えて樹と向きあう人がいる。「ご神木と言うけれど、人間の一生などより遥かに長い年月を生きてきた樹はね、本当に樹そのものが神様になっているんですよ。長い歴史の記憶があるのはもちろん、それを伝えようとして、触れる人に夢を見させたりもするんです。さらには、森の他の樹に呼びかけたり、人に祟りを成したりもするんです」。

 ときどき、樹に登って、樹と一緒に風に揺られていると、その樹が年輪に刻み込んだ記憶にアクセスできるのではないかと思うことがある。縄文杉のように何千年も生きてきた樹なら、彼らの蓄積している記憶は人類史のほとんど全てといってもいいだろう。そんな記憶を持つ樹から学ぶことが出来れば、ぼくたち人類は、今まで繰り返してきた愚かしい行為を再び犯さずに済むのではないだろうか。

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巨木信仰の意味

 世界中に、太古から伝わる「巨木信仰」がある。

 人は、大地に深く広く根を張り、天に向かって立ち上っていく巨大な樹を、天と地を繋ぐ媒介と考え、あるいは天の声を伝達するアンテナと考えた。また、世界のどこかには天まで届く「宇宙樹」があり、それが天を支えているとも考えた。

 北欧神話は、世界そのものを一本の巨大なトネリコの樹「ユグドラシル」が形作っていると考える。ユダヤ神秘主義の真髄ともいえる「生命の木」は、精神の成長過程を象徴する樹であり、それぞれの階梯を表す4つの節と6つの枝を辿ることによって神の領域=真理が見渡せる世界に到達できるとされる。さらに、身近な例を挙げれば、「ジャックと豆の木」も、宇宙樹のイメージをモチーフとした物語といえる。

 大昔、地上には樹冠が雲の中に没してしまうような大樹がたくさんあった。ケルトの神話が生まれたスコットランドやアイルランドも深い森が覆い、森の主のような巨木があった。中近東も、樹高40mを越えるレバノン杉が林立する森だった。日本も、明治の初期までは身近な鎮守の森に天を突くような巨木がご神木としてあり、山のほとんどは人の手の入らない原生林だった。今では想像できない巨木たちと向き合って暮らしていた人間たちは、みんながベテランの樹木医のような畏敬の気持ちを樹木に対して抱き、自然界での自分たちの存在位置を今のようにその頂点に立っていると誤解してはいなかっただろう。

 だが、よく考えてみれば、濃密な自然と巨木たちに囲まれていた頃の記憶は、今のぼくたちにも残っている。だからこそ、陸前高田の奇跡の一本松をなんとか救いたいと思い、宮崎駿が描く「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」、それに「アバター」で描かれる自然=樹木崇拝に無条件で共感できるのだろう。そして、ツリーイングで樹に身を委ねたときに感じる一体感も、巨木信仰の時代の遠い記憶なのかもしれない。

 石川と岐阜、さらに福井の三県をその稜線で分ける霊峰白山。その白山の南麓に石徹白(いとしろ)の大杉がある。

 郡上八幡から北上し、白鳥の市街地を過ぎて、深い山間に伸びるつづら折れの道をどこまでも進んでいくと、白山中居神社に辿り着く。言い伝えではこの神社は景行天皇の時代に創祀され、養老元年(717)に白山開山の祖である泰澄が整備拡張したとされる。かつては美濃禅定道(現在の郡上市白鳥町から白山山頂までの巡礼路)の要衝として栄え、今川義元、柴田秀勝、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など、多くの戦国武将の尊崇を集めた。だが、今は、訪れる人もほとんどなく、苔蒸した石畳の窪みが、往時は多くの神職や巡礼の人たちがここにお参りして白山に向かっていたことを偲ばせるだけで、ひっそりと静まり返っている。ここから白山への登山道は今でもあるが、他のルートと比べてとびきり長いこのルートをとる登山者も滅多にいない。

 白山中居神社から先は、心細いくらいに車道が細くなり、その道もほどなく行き止まりとなる。ここからは徒歩で長い石段を登っていく。

 いい加減、息も上がって、そろそろ休憩しようかと思う頃に、石段が終わり、あたりが急に開ける。そこには巨人たちが居並んで待ち構えている。どれも樹高30メートルを軽く超える巨木の群れ。そしてその中心に、幹囲が周囲の巨木の軽く4,5倍はある森の「主」が聳えている。今は途中で折れて樹高は25メートルほどだが、幹周りのスケールからすれば、かつては100メートル近い樹高があっただろう。

 これが、樹齢1800年と推定される「石徹白の大杉」だ。屋久島で縄文杉が発見されるまでは、日本国内屈指の樹齢を誇る樹であり、戦後すぐに天然記念物に指定された。

 石徹白の大杉は、周囲の樹とは明らかに異なるオーラを放っている。同じ森にありながら、この樹だけがひときわ大きく、太い縄を何本も撚り合わせたような凸凹が目立つ異様な姿形をしている。こうした巨木と向きあった時にいつも疑問に思うのは、周辺の環境…地質、地盤、日照、降雨量、風等々…は、まったく同じなのに、どうしてピンポイントでこのように周囲とは異なる生命が育まれたのかということだ。

 大杉の周囲には、他の土地にあれば天然記念物に指定されそうな巨木が林立しているから、人の手が入って間引きされて大杉だけが残されたとは思えない。あの陸前高田の奇跡の一本松のように、古い時代に襲った洪水か山津波でこの樹だけが奇跡的に生き残ったのかもしれない。あるいは、そのポイントだけに働く未知の力が作用しているのかもしれないし、ただ単純にこの樹の生命力が偶然際立っていたのかもしれない。だが、いずれにしても、この大杉を前にすると、この存在自体がこの世に超自然的な力があることを証明しているとしか思えない。

 この大杉は、白山を開いた泰澄がここで休憩した際に、地面に突き刺した杖がそのまま根付いたものだという伝説がある。泰澄が活躍したのは1300年前の8世紀であり、大杉は樹齢1800年と推定されているから、年代的には合わない。泰澄は、聖山としての白山を開山したほかに、大地に潜む魔物を鎮めたという逸話が数多く残っている。なかでも、能登半島を北東から南西に横切る邑知形断層帯と呼ばれる大きな複合断層に沿って、魔物退治のために経を納めた鉢を埋めた話は有名だ(拙著『レイラインハンター』の第八章「能登・イルカ伝説と泰澄」に詳述)。そんなことから、泰澄は単なる仏教僧というよりも、超自然の力を自在に操る修験者のイメージが強い。その泰澄のイメージと大杉の威容が重なりあって、泰澄の杖が巨樹となったという伝説が生まれたのだろう。

 泰澄に続き、ちょうど世代を繋ぐように、マジカルなイメージを纏った僧、空海が登場した。空海にも手にした杖が根付いて神木となったという伝説が多い。巨樹巨木の威容に泊をつけようと、法力の強い彼らのイメージが付託されたのだろうが、手にしていた杖が根付いたというモチーフは、西洋の魔法使いの杖や日本の御杖代(みつえしろ)を連想させて面白い。

 ハリーポッターは魔法を使うときに柊の杖を打ち振るが、これは柊(ホリー)が神聖さ(ホーリー)に繋がり、邪悪を祓うというヨーロッパの古くからの言い伝えを基にしている。御杖代は、伊勢の斎宮のように、神の杖先となって鎮座地まで案内する者のことを指すが、そこには木の杖を突いて天照大御神を奉斎した行列を引き連れて歩く斎宮の姿がはっきりイメージされている。洋の東西を問わず、樹に神聖な力が宿り、それが超自然的な力を発揮するという共通の信仰があったことがわかる。また、西洋で古代から行われているダウジングという土地の持つ力や水脈を探すオルタナティヴな技術があるが、そこでも用いられるのはダウジングロッドと呼ばれる二股になった枝で、泰澄や空海が杖をついたという伝承には、ダウジングロッドを使った土地鑑定と同じような技術が当時の日本にあったことも思わせる。泰澄や空海は杖を使って、神を祀るにふさわしい場所を特定しそこにマーキングした。その場所は他の場所から聖別され、社が築かれたり、近くの樹や岩が神の依代、ご神体とされて信仰を集めるようになる。

 石徹白の大杉は、もちろん泰澄がこの場所に訪れるよりもはるか以前からそこにあった。推定樹齢が正しければ、泰澄が対面した大杉は500年を越えていたはずだから、すでに相当な貫禄を備えていただろう。泰澄は、この樹の持つ特別な霊性に気づき、これを白山禅定道の一里塚として、自らの法力も与えたかもしれない。

 ぼくが、初めて石徹白の大杉と対面した時、その威容に圧倒され、しばらく呆けたまま立ちつくしていた。そのとき、真っ白になった脳裏に、微かにかつてこの樹と対面し祈りを捧げた人たちの姿が浮かび、彼らの思いが伝わってきたような気がした。

 白山中居神社が盛んな頃には、石徹白の大杉はまだ天を突くような高さで聳え、神職や参詣者たちはこの大杉をご神木として、毎日拝していた。この樹と向きあう時、彼らは樹に魂を吸い取られるように無心になり、再び魂が体に戻った時には、すっきりと浄化されたような気分になっていたのではないか。また、美濃禅定道を行く白山の登拝者や修験者たちは、禅定道がこれからいよいよ本格的な山道に入るというところでこの杉と対面し、その崇高な存在感に畏敬の念を覚えさせられると同時に、これから向かう白山という場が秘める霊性の大きさを想像して、気を引き締められただろう。

 そんな白日夢ともつかないビジョンが通り過ぎた後、ぼくの体にも魂が戻り、意識が、生まれ変わったように透き通っているように感じた。そして、目の前にある大杉の太い幹に刻まれた深い皺が、炎となって天に向かって吹き上げる大地の力そのものに見えた。そして大杉全体を見渡すと、それは見覚えのある太古からの遺物、縄文の火焔土器の姿をしていた。

 縄文中期に現れた大胆な線文を刻む土器は、その線文がメラメラと燃える火焔のように見えることから「火焔土器」と名づけられた。火を使って食物を加工し、土器を焼いていた人類は、物質を有用なものに変化させ、また時には火山噴火であらゆるものを灰燼に帰する「火」をとても神聖なものと考えた。そして、これを土器の意匠に取り入れることで、火が持つマジカルな力をそこに備えさせようとした。一般的には、そのように説明されている。大杉の姿が火焔土器とだぶって見えたその瞬間まで、ぼくも、火焔土器はその説明通りに火そのものを象ったものだと理解していた。

 だが、それは「火」そのものではなく、「火炎」という形に具現化した大地の力を縄文人たちは意識していたのだと確信した。石徹白の大杉に、その威容を与えたのは、その場所に沸き立つ大地の力だ。炎のように天に向かうその力の流れに沿って大杉は形作られた。

 縄文人たちは、身近にあった石徹白の大杉のような巨木に、大いなる大地の力を感じ、巨木をコピーしてあの「火焔土器」を作り出した。この土器は巨木の超自然的な力の裏づけである大地の力を受け継ぎ、これに保存された食物は腐ることがなく、これで調理された食物を摂れば、大地の力が自分の心身にも満ちると考えたのではないだろうか。

 ツリーイングと出会って以来、大きな木を見つけると登ってみたい衝動に駆られるようになってしまったが、この石徹白の大杉には、さすがに登りたいという欲求は起きなかった。それは、登ることはおろか、触れるだけでも畏れ多い相手であり、側にいるだけでこの樹が秘めた力のあまりの大きさに、身も心も竦んでしまう。

 その代わり、これも杉の巨木だが、傍らにある樹に登り、大杉と同じ「目線」の高さに行ってみたいと思った。隣の樹に登って、大杉と同じ風に吹かれれば、その風に乗って、大杉がその内に刻んだ様々な記憶が、囁くように響いてくるのではないかという気がするのだ。

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■参考■

●白山中居神社(はくさんちゅうきょじんじゃ)
 岐阜県と福井県の県境付近は、今でも通り抜けできる街道が少なく、古くからの森がそのまま広がっている。白山中居神社周辺も樹齢千年を越える杉やブナの原生林が残り、太古からの雰囲気をそのまま宿している。神社には白山信仰隆盛時の名残をとどめる彫刻や能面など文化財が多い。毎年5月第3日曜日に春季例祭では五段の神楽が奉納され、7月第3日曜日の例祭では素朴な巫女舞「浦安の舞」が奉納される。
・交通
 長良川鉄道美濃白鳥駅からバス45分、上在所バス停下車
 **バス便は非常に少ないので、タクシー利用かマイカーがベスト

●石徹白の大杉
 現在の樹高は25mあまりだが、かつてはこの倍以上あったとされる。周囲も巨木が林立する中でひときわ目立つ存在感がある。誰でも、この樹と出会ったら、「森の主」をイメージするだろう。
 白山中居神社から徒歩2時間。道は車が入れる広さがあり、荒れてもいないので、健脚の人なら1時間半ほどで行ける。車は美濃禅定道入り口まで入れる。駐車場から最後に距離300m標高差90mを一気に上る420段の石段が待ち受ける。

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