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映画鑑賞雑文「I,Tonya」2017年

昨日シネフィルである旧友と暇潰しに京都へ出かけ、その際に最近観た映画で本作が良いと熱弁を受けて、退屈で仕方ない日々なので早速観てみた。
彼は邦画を黒澤明以外嫌悪しており、鈴木清順の狂った最高作品「殺人狂時代」を薦めてこの間観たが途中で断念したとの事だ。旧友というのはこの程度が良い。おべんちゃらが一切なく、趣味趣向が違っていても共存共栄出来るものだからである。
さて、I,Tonyaであるが、これは実話を元に作られた作品である。フィギュアスケートに関して全く興味が無く、どちらかと言えば嫌悪感すら持っている人間であるが、この作品は良かった。
近代以降の文化は全て労働者階級によって育まれていると思っている。否、結局アッパークラスが文化を拡散し、商売にする事で世界中で影響力を獲得するという資本主義のルールは重々承知しているが、クールな文化の先鞭は常に労働者階級によって始まったものである。ロックンロール然り、パンク然り、サイケデリック然り、文学然り。
勿論その状況は新自由主義の加速により、相対的な中産・労働者階級の没落と共に終焉を迎えつつある事は想像に難くない。
とにかく、この映画においてはアメリカの病んだレッドネック・ヒルビリー・ホワイトトラッシュ(劣悪な労働者階級社会)における残酷物語である。
主役のトーニャもフィギュアスケートの天賦の才が無ければ、普遍的なアメリカ社会の一風景にしかなるまい。
無知で、無教養だから残酷なのではない。その構造と繰り返される日常こそが誰しもが持つ絶望として普遍性があるのである。そう、アメリカ(高度資本主義・消費社会)は地獄なのだ。多くの我々にとっては。
それを無条件に受け入れるしかないホワイトトラッシュ及びマイノリティー達は一部のサクセスストーリーに酔いしれる事は最早ない。残酷物語を消費し、トーニャを興業目的としてのボクサーにまでさせるのだ。
そんな残酷物語を楽しみ、こうしてやれアメリカが、資本主義社会下における労働者階級が云々と吐かす俺のような中産階級出身者の死滅する日は近い。その日までその僥倖によって得た豊かな背景と詭弁によって終末まで享楽、闘争し続けない限り、ソーニャの残酷物語に胸を詰まらせる権利も楽しむ権利も許されはしない。
Yanks Go HOME!

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