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映画鑑賞雑文「山中貞雄作品」

たまたま床屋で読んだ雑誌に山中貞雄の人情紙風船に関して書かれており、そう言えば山中貞雄の名前はたまに見たなと思って、Amazonプライムに完全に近い形で現存する三作品全てがあり全て観終えた。
山中貞雄よりも中島貞夫の作品を好きでよく観て、いつも山中貞雄と中島貞夫を誤謬していて、広く浅くのサブカル少年上りにありがちな体たらくであろう。
件の山中貞雄、1930年代に活躍して夭折した伝説的映画監督であり、またその作品が現存するもの3作品しかなく、またその早熟と出征後の病死により、その伝説は完璧なものとなっている。
「生きていれば同世代の黒澤明をも越えたような映画作家であろう」と言われる事も、"可能性の永遠"を獲得した夭折者だからこその永遠性である。
僕は未だ夭折者を愛して止まないが、それは"永遠"というものが存在し得ない事の証左でもある。
"此処ではない何処か"と"いつか"というものが、絶対に訪れる事がないのが日常(シャバ、ケ)であり、それでも非日常を空想幻想し続け、ハレを現出させようと夢想しながら生きていかねばなるまい。夭折の天才は、夭折する事でその天才性を獲得すると思わずに消えていくからこそ"可能"なのである。

山中貞雄現存3作品はその全作に通底して、くだらない日常に辟易し、諦めて、ドロップアウトしたかのような駄目な人間、有象無象が、それを受動的、能動的どちらかを選択した登場人物達が折り重なって濃淡を彩っていく。
そして、それらの脱落者、半端者、現在(いま)に寄り添えない人間達が一瞬輝くような行動を起こし、人情紙風船と河内山宗俊の二作の物語は哀しく終わっていく。
丹下左膳余話百萬両の壺は、その百萬両の壺を手中にしたにも関わらず「江戸の街の何処かにそんな壺が転がっているのは痛快じゃないか」という物語途中の丹下左膳の言葉通り、無関心に放置し終わっていく、結局"何か"と思って得た物をも初めからそんな高揚は無かったかの様にくだらない日常へ戻っていくというそのグロテスクさに於いて最高の終わりになる。
世の中に数多いる与太者、半端者、脱落者達が90分の中で一瞬輝き散ったり、痛快に終わっていく物語が、喜劇を主調とした演出の上に成り立つ事で嫌味さ、ナルティシズムが削ぎ落とされ、素晴らしいものとなっている。
山中貞雄は、虚構でしかない映画(文化芸術)で"此処ではない何処か"と"いつか"を現出させ、鑑賞者に対して非日常を瞬間的に夢想させ、終わりと共にまた日常へ絶対戻っていかなければならないという、その行為を担保出来うると僕が信用できる作家の一人であろう。
そして、ここまで強烈に魅了される事になった山中貞雄作品のキッカケは前述の人情紙風船である。
観ている途中はフィルムの保存状態が悪かったのだろう。音声は粗く、画質は元々が悪い状態であり、それだけでなく、薄ぼんやりと「たるいなー。早く終わらんかね」位に思って観終えた。
しかし、数日経ち、日毎に、作品中に出てくる人々や、無様に、或いは見栄と義侠心で散っていくであろう事を想像させる結末や、空気感が堪らなく印象に残り、思い出させられていった。
そうして、本日一日で残りの丹下左膳余話百萬両の壺、河内山宗俊を一気観した次第である。
義理人情を根底にしながら、結果与太者、半端者、拗ね者、脱落者達が転がり落ちていくような河内山宗俊と人情紙風船は圧倒的に素晴らしい。
同じく義理人情を旨に、アナーキーに七転八倒し圧倒的な物質を獲得してもそれを平然と放逐する丹下左膳余話百萬両の壺もまたこれがひどく心を打たれる。
素晴らしい作品達との出逢いであった。

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