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本と私の信頼関係の結びかた

「暮らしのなかに本の存在がたえずある」、そんな生活にあこがれています。

本を読む(読み終える)ことが中心目的なのではなく、その本を読んだあとの、その後の本との関係をたいせつにしたいなあと思うのです。

日常のふとしたときに、こころにのこった一文や短歌を反芻してみたり、心地よいと感じた文体を思いだしてみたり、お守り本の佇まいを恋しく思ったりして、また本棚からその本を取りだして読んでみる。

生活のなかに、もっと言うならば私のからだのなかに、溶けこむようにして存在している、お守り本や言葉たち。
実際に本を読んでいないときでも、数ある私のお守り本のなかの一冊が、こころのなかでは常にページをひらいていて、四六時中じぶんをなぐさめてくれていると感じるような。
そんな暮らしがしたいのです。

さいきんは、たいせつにしたい本ばかりと出会います。

私はいつも、あたらしい本にはこころを開ききれないし、おなじく本のほうでも、彼らが私のことを何者なのか見定めているような気配を感じることがあるので、一読しただけでは、ほんとうの意味で仲よくなることができないときが多いです。

なので、読んでみてふとひっかかりを感じた本や、こころときめいて恋に落ちた文章があった本などは、かならず再読することにしています。
再読して気に入った本は、その後いっしょにお出かけもして、その出先でなんらかの思い出(花びらや入場チケットなど)をページに挟んでふたりで記憶を共有して、それでようやく、本は「私のお守り本」という、かけがえのない友となってくれるのです。
ながい時間をかけて信頼関係を築いたお守り本とは、生涯かけてお付きあいしてゆくつもりです。

さいきんお守り本となったのは、幸田文氏の『木』。

縁だの運だの時だのと、古めかしくいえば笑われるが、私は古人間だから、出逢いということにはそれがあると思う。かねてのことが、今度は縁を得たのだった。

幸田文著『木』新潮文庫 P.57

幸田氏は、とある木との出逢いについてこう書いているけれど、本もおなじだなあと思います。

出会ったときが、出会うべきとき。
だけど、機を逃しても、その後ふたたび出会えたのなら、それもまた運命。

そんなふうに出会った本たちと、すてきな関係を築いてゆきたい。
私をつつみ、はげまし、諭してくれる言葉たちと、これからもずっと、一緒にいられたらいいなあと思います。

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きょうのお弁当。

きのうの予定どおり、きのうのおかずの残りと、レタスとしらすと卵の炒飯になりました(´(ェ)`)