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『極北の動物誌』と『旅をする木』

決定的な何かが過ぎ去ったあとの、沈黙する光景の中にいたい。そうすれば人の営みや、時間というものの本質が、少しでも感じられるような気がした。

梨木香歩著『海うそ』岩波現代文庫 P.17

『海うそ』のこの文章に触れたとき、星野道夫氏の『旅をする木』に収録されている「トーテムポールを捜して」という短い随筆のことを思い出しました。

『旅をする木』のなかで、私はこの「トーテムポールを捜して」と「新しい旅」、「早春」がとくにすきです。

星野氏の眼差しはとても深くてやさしくて、それでいて時々きびしい。
そのまっすぐな目で、どんな風景を観ていたのだろうかと。
そのつよく真っ直ぐなこころで、どんな時の流れを生きていたのだろうかと。
『旅をする木』を読んでいると、ぐっと胸が詰まる想いをすることがあります。
けれど同時に、こころの奥深く、ぐちゃぐちゃとこんがらがっていた思考や感情が、ちぎれることなく緩やかにほどけていく感覚を味わうこともあって、そうすると「ああ、ほぐれていくなあ」と安心して息をつくことができるのです。

星野氏の文章を暗記しているわけではないのですが、彼の言葉にふくまれている養分をこころが覚えていて、ふとしたときに思い出してはそれを味わっているので、頭とこころの片隅には、おぼろげながらも常にこの本の存在があると言っても過言でないほど、とてもたいせつにしているお守り本のなかの一冊です。

『旅をする木』に入っている随筆の一つ一つは、すべて数ページのとても短いものなので引用は控えますが、その数ページのなかで語られるアラスカの自然や星野氏の流れゆく時間の捉え方は、泣きたくなるほどうつくしいのです。
彼の文章に触れて、こころの底からほとばしりでる喜びや哀しみが入り混じった言葉にならない感情は、ページを進めるごとに大きなものとなって、私をのみ込んでいきます。
星野氏の言葉たちにつつまれて、そのつつまれているあいだだけ、じぶんもアラスカの風を感じることができる。そんな時間が幸福なのです。

『旅をする木』とくれば、個人的にはプルーイットの『極北の動物誌』も外すことはできません。
プルーイット氏とこの本のことは『旅をする木』のなかでも触れられていますが(星野氏は『旅をする木』のなかでタイトルを「北国の動物たち」と訳しています)、こちらも厳しくもうつくしい北国の大自然を生き抜く動植物たちの魅力がいっぱいに詰まったすてきな本です。

人間の目をとおしてというよりも、カメラのレンズが動物たちと彼らを取り巻く自然を逐一追いかけ捉えつづけている、という感じがして、その詳細な描写はまるでドキュメンタリー映像を見ているかのように私の目の前に広がっていきます。

けれど、写実的でありながらも、プルーイット氏のやさしく澄んだ眼差しの気配は常に感じ取ることができて、その描写のうつくしさは胸に迫ります。

動物たちの生き生きとした野生の姿は、プルーイット氏がアラスカの大地を愛し、そこに生きる動植物を長年観察しつづけたからこそ書くことのできたものだと思います。
想像で書いた風景がひとつもないからこその説得力。
この説得力にこそ、アラスカの大地に対するプルーイット氏の確かな愛を感じるのです。

あとからやってきた人間が破壊してしまった自然と原住民の生活についても書かれているので、決してうつくしいだけでは終わらない物語なのですが、それでも、ここに登場する動物たちに対する胸のときめきは抑えることができません。

おなじ時代を生きながらも、人間である私と大自然に生きる動物たちのあいだに流れている時間は、きっとまったくちがうものなのだろうなあと思います。
けれど、この本を開いているあいだだけでも。
私も日々の雑事から離れて、彼らの過ごす時間にすこしのあいだだけ、混ぜてもらえているような、そんな気がするのです。

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