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嫁にいくまであと6日

1日が、あっっっっっというまであります。

6月に入り、あっっつい日々が続きます。マスク、熱中症なるで。

今日は、仕事の前にお世話になった御近所さんに引越しのご挨拶に周りを。

濃いご近所関係があったわけではないにしろ、ずっと近くで生活してきた方々に、「2人での生活、楽しみね。頑張ってね」と温かい言葉をいただきました。

何もないように思っていたけど、いろんな人生がやんわり交差し続けているのだな。

「なくても済むことかもしれないけど、こういうことはちゃんとしておくといいよ。ちゃんとありがとうを伝えられる人は、人から変な風にはされないから。」

ちょっと前を歩く母は、そう言っていました。

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入籍の一週間前、私は旦那さんになる彼と一緒に、自分の実家に帰ってきました。遊びに来たわけではなく、住むために

千葉にある実家は両親が40年近く前に買った一軒家で、私が生まれ育った場所。

母が「山梨でゆっくり暮らしたい」と突然土地を買ってきたのは私が小学6年生の時で、そこから両親は、千葉と山梨との2拠点生活を始めました。

だんだんと比重は山梨に移り、両親がいよいよ本格的な年金生活に入る頃勃発した、「千葉の家を売るか問題」。

「家はあくまで入れ物で家族がいる場所が実家だから、売ってしまうのも良いんじゃない?」売却に向けて一度は見積もりをとったものの、家族会議での結論はなかなか出ない問題でした。

家が2つもある贅沢はわかっていながらも、思い出がある。学生時代から、よく友達が集まる家でした。なんなら両親も一緒になって飲むこともあったくらい。2歳から始めたピアノの練習が嫌すぎてビービー泣いたこと。「世界はお前中心に回ってるんじゃない!」と怒られて、よく閉め出されていたこと。背中を丸めることで反省した雰囲気を出しつつ、軒下で体育座りしていたこと。突然部屋の壁をピンクにしたくなって「せめてブラインドにしてくれ」という許可のもと、真っ白のブラインドを真っピンクにしたこと。サリーと チョコという2匹の犬と暮らしたこと。両親と、2人の兄姉と暮らしたこと。実家って、人生詰まっててなかなかにアンニュイです。 

「誰かに売ったとして、この家が壊されてしまうのは嫌だなあ」そんな風に思っていた頃に結婚が決まり、「私が結婚して実家に住む」という選択肢が生まれました。

しかし、なかなか彼に言いづらい。「奥さんの実家に住むって何」だし、「長男だから、義理の両親が嫌がるかも」だし、「てゆーか、1ヶ月に数日は帰ってくるわけだから、同居じゃん。キツイわ」だし。何度も頭から消そうとしても思い浮かんで、ダメもとで聞いてみた答えは、「別にいいんじゃん? 住もうよ」でした。

いいやつだなーと思ってはいたけど、どうやら神様でした。

「いいじゃない! え? だめなの?」と快く送り出してくれた義理の両親にも、本当に感謝しかないのです。

彼は仕事柄年上の方との関わりがとても上手で、新しい生活でも十分に私の両親に気を遣ってくれました。

あまりに普通に実家にいるものだから、一瞬「兄弟増えた?」と錯覚しかけたくらい。私の幼なじみですら「ずっと居たくらいの安定感だな」と驚いていました。

そんな経緯がありつつ、「とはいえ、そろそろ自分たちの拠点を」と決めたのが、今週末に引っ越す場所です。

なんというか、新婚感がすごい。(すでに10ヶ月経過)

部屋探しに始まって、家電はどうする、インテリアはどうする。

そうか、みんなこんな風にワクワク新婚さんするのだな。そりゃキャッキャするわ。新鮮さに驚き、むしろ美味しいところを二度味わえている感じすらあります。

そして、だから感じる、(今から)嫁に行く感。

だって、月に数日は一緒に住んでいたのだもの。それまでは長く家を出ていたから、なんならご飯とか出てくるの「最高かよ」と思って甘えていたもの。これが今年33歳になる女ですよ。(両親・旦那双方向に向かってごめんなさい)

母も同じように感じていたようで、今日挨拶に回るお宅お宅で、「ようやっと嫁に出すようで寂しい」と話していました。

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今日も、たくさん話をしました。

「身内には何をしても当たり前なのよ。お母さんになったら特に。だから『私はこんなにやってるのに!』なんて内側に感謝を求めすぎず、ちゃんと外からみても価値を感じてもらえる人でいなさい」

「話を通す時は下っ端じゃだめよ。一番上を抑えなきゃ」

なんだか最近流行りのビジネス書に書いてあるような言葉ばっかり、出てきて笑える。

「親の顔を見てみたいって、親だけじゃないよ。一人の人格は100年かけてできるんだと思うよ。さよは、お母さんだけじゃなくて、お母さんを育てたおばあちゃんの影響も受けている。おばあちゃんはすごく新しい物事の考え方をする人だったし、だから逆境にもあったけど、すごく辛抱強い人だった」

私はほとんどおばあちゃんとの記憶がないから、この年になって初めて、どんな女性だったのかを聞いた気がする。

なるほど。母も年代に縛られない柔軟な考えをする人だなと思うけど、祖母もそうだったのか。そうか、わたしはいいものをもらっているんだなぁ。

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不思議なもので、私は母が「大丈夫よ」と言ってくれるだけで、なんでも乗り越えられる気がする。

「さよは踏ん張ったんだよ。乗り越えられたの」

厄介ごとばかり起こして頭を下げさせまくった私のことを、信じてくれる存在で。

「人生一回きりっきゃないんだから、あんぽんたんでも幸せでいたらいいのよ」

正しさよりも、幸せでいることを勧めてくれる。

いろいろな話をして、お母さんも一人の女性なんだよな、と当たり前のことを認識した夜。早々に寝てしまった父への悪口も笑って聞きながら、「今日もよく話したな」なんて思っていたところだった。

今、深夜2:30。

私は、彼女の帰りを待っている。

ほんの数時間前、119で呼んだ白い乗り物が、父と母を連れていってしまった。

大事ではない。大丈夫。「もー本当びっくりしたー」って、わーわー帰ってきますようにと、願いながら。

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柴 田 佐 世 子
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:: きのうのはなし ::

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