京都嘱託殺人事件から考える②~どう生きるか~

梅雨が空けて本格的な夏がやってきました。
皆さん、熱中症には十分ご注意くだささい。

今日は先週の続きを書きたいと思います。。
事件の概要については前回記事をご参照ください。
京都嘱託殺人事件から考える①~物事の複雑さ~|自律整体めぐりや

今回の事件は亡くなった方が自ら死を望んでいたことから、安楽死について考えたいと思います。

まず言葉を整理するためにコトバンクで安楽死を調べました。
『(1) 積極的安楽死
 (2) 間接的安楽死
 (3) 消極的安楽死
の三つに分類されることもあり,
(1)は苦痛を除く手段がない患者の命を薬剤投与などで意図的・積極的に縮める行為,
(2)は苦痛緩和療法で麻薬などを与えた結果として死期を早める行為,
(3)は苦痛を長引かせないよう医療行為を控えたり延命治療を中止したりして死期を早める行為,
とされている。』
今回の事件はこの定義では「積極的安楽死」に当たります。

オランダでは積極的安楽死が認められていますが、信頼関係のあるかかりつけ医が長い時間をかけてやりとりして初めて安楽死が認められるそうです。

こちらの記事が参考になりました。
「オランダで、安楽死の容認はなぜ可能なのか」星野一正氏

※今回の事件は薬剤による死をいわゆる「赤の他人」に依頼しており、オランダの安楽死と照らし合わせると全く安楽死と認められないことが分かります。


積極的安楽死が認められている国はわずかですが、消極的安楽死は欧米でかなり認められているようです。
こちらの記事を参考にしました。
「死に方を選ぶ、尊厳死が合法な国と日本の状況。治療中止とリビングウィル」

消極的安楽死は尊厳死とほぼ同義のようです。
この記事は尊厳死を肯定的に捉えている印象です。


一方、ALS当事者であるれいわ新選組の船後議員が『 「死ぬ権利」よりも、「生きる権利」を守る社会にしていくことが、何よりも大切です。 』とコメントしています。
(船後議員オフィシャルサイトより)

『私も、ALSを宣告された当初は、出来ないことが段々と増えていき、全介助で生きるということがどうしても受け入れられず、「死にたい、死にたい」と2年もの間、思っていました。しかし、患者同士が支えあうピアサポートなどを通じ、自分の経験が他の患者さんたちの役に立つことを知りました。死に直面して自分の使命を知り、人工呼吸器をつけて生きることを決心したのです。』

『難病患者や重度障害者に「生きたい」と言いにくくさせ、当事者を生きづらくさせる社会的圧力を形成していくことを危惧する』

船後議員は消極的安楽死も認めるべきではない、との立場です。


ここからは私感ですが、欧米では個人の主張が求められ、「どう考えるか、何がしたいか」が明瞭な傾向が強いように思います。
一方、日本では個人より協調が重視される傾向にあります。
そのため「個々がどうありたいか」よりも家族や地域といった社会の都合が反映されやすい側面があります。

船後議員の主張はかなり納得できる部分が多いです。
死にたい、という人をどう生きたいと思ってもらえるのかが社会のテーマ、ということもその通りだと思います。
また、日本社会が障害者などを排除してきた事実があります。
障害があれば施設に入れて社会と隔離してきた。
優生保護法によるハンセン病差別はあからさまな排除の例です。
社会の都合で個人が犠牲にされてきた現れです。


ここまでまとめた上で、私は個人の自立がとても重要だと感じました。
確かに生きたいと思える社会を作りたいと私も思います。
そして生きたいと思える社会は個人が尊重される社会ではないでしょうか。
個人が尊重されるには1人1人が自分を真に大事にし、相手を尊重する態度が必要です。
また、自分の人生を人任せにせず、自らの生き方を自らが選択していくことが必要だと思います。
そういった個々の自立があることが基礎にあることで人生の最期も選択できるようになるのでないかと感じました。

自分のことは自分で決める。
その上で人の決めたことを尊重する。
当たり前のようでとても難しいことですが、改めて大事にしていきたいと思いました。

来週ももう一歩深めていきたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?