京都嘱託殺人事件から考える③~個人の尊重~

長い長い梅雨が明けたかと思えば強烈な暑さがやってきましたね…。
そんな中ミニトマトが一斉に赤くなってきました!
無肥料無農薬ですがとても良く成長してくれました。
自然の恵みに感謝。

さて、表題の事件ですがあまりにテーマが多岐に渡り、かつ深すぎるため複数回に分けて考えています。

前回、安楽死は3つに分けられることを挙げました。
京都嘱託殺人事件から考える②~どう生きるか~|自律整体めぐりや

その内の積極的安楽死は自死の一部と捉えられると思います。
自死については次回書きたいと思います。

そして消極的安楽死。
人口呼吸器などの医療処置を選択せずに死を選ぶことなどを指します。
今回、ALS当事者の発信は積極的、消極的問わず安楽死を認めてはならない、というものが多い印象でした。
ALS当事者である船後参議院議員の見解リンクを載せておきます。
「事件の報道を受けての見解」


そこで一つ違和感を覚えました。
癌を発症した方が末期となったケースについて考えると確かに積極的安楽死は議論が分かれます。
しかし抗がん剤などの治療はもうしない、という選択(いわゆる消極的安楽死)をすることは概ね受け入れられると思います。
なぜそのような違いが生まれるのか…。


一つに「年齢」を考えました。
人により経過は様々ではありますが、ALSや筋ジストロフィーなど難病の方は医療技術の進歩で長く生きられるようになりつつあるとはいえ、進行性であり全体の平均寿命より短いと思われます。
難病情報センター「ALS」

しかし若年でも癌治療の選択は尊重されることが多いと感じますし、年齢はさほど関係ないように思われます。
では何が原因なのか。


改めて船後議員の見解を読むと、安楽死を認める動きが『当事者を生きづらくさせる社会的圧力を形成していく』とあります。
前回書いた通り、障害のある方は差別され、排除され続けてきました。
その中でパワフルな当事者が障害者福祉を切り開いてきた、という歴史的経緯があります。
主張しなければ社会的なものも含めてどんどん死に追いやられる立場にあったわけです。
そして現在、障害のある当事者の声が以前よりは世間に届きやすくなったとはいえ、まだまだ少数派です。
少しでも気を緩めるといつまた排除の方向に進むか分かりません。
そういった背景が当事者の声に表れていると感じました。

言い換えれば、今の世の中は決して個人の意見が尊重されていない、ということだと思います。
今に限らないですが日本では特に強力な同調圧力が働いており、個人より集団の都合が優先される傾向が強いと感じます。
障害があろうがお金が無かろうが少数派だろうが、一人一人が個人としての尊厳が保たれ、意見が尊重されれば「安楽死」という選択肢の見方も変わるのかもしれません。

真に自由に考え、行動できる世の中になればとても生きやすい社会になると思います。
そしてそんな社会を作るのは政治家でもどこかのエラい人でもなく、自分たち一人一人であることに気付くと世界は変わります。
真の自由とは自分を尊重し、他者も尊重することでしか成り立たないと思います。
他者は関係なく、まず自分が動く。
そんな人が増えてほしいなぁ、と思いながら毎週記事を書いています。

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