【プレゼントの本質】プレゼントを贈り合う意味が分からない人へ
誕生日プレゼント、クリスマスプレゼント、バレンタイン、ホワイトデー、結婚祝い、出産祝い、昇進祝い、快気祝い、父の日、母の日、長寿祝い。
プレゼントは割とイベントごととセットではあるし、時にはプレゼントがイベントのメインということもあるんじゃないかな。
今、プレゼントに抱くあなたのイメージはどんなものですか?
嬉しい?めんどくさい?楽しい?義務感?桃?
思い返して触れてみれば、子供の頃のプレゼントにまつる思い出というのは見事にどれも温かい。
おもちゃ屋さんのちらしを見つけては欲しい物にぐるっと丸をつけたり、お目当てのおもちゃCMを見るたび親にも見せようとしたり、会ったこともない私にプレゼントをくれるサンタさんへの好きが高まって50音表を頼りにボロボロのひらがなで精いっぱいお手紙を書いたり。
プレゼントにまつわる思い出と瞳がもれなく輝いていた子供時代、私は無敵だった。
悲しいが、それも大人になれば話は違ってくる。
当然「お返し」の概念が身に着いた。
自分でお金を稼がなくてはいけない時代、「大人」に突入する。
いつまでもちょっと貧乏な暮らしから抜け出せない私の損得勘定はどんどん速くなった。
自分を生かすので精一杯な日々は、節約の二文字を太字にするし、人との繋がりを軽視させるし、思い出を振り返る時間も首の可動域も狭くさせた。
他人に贈り物をしたいと思わせる心の余裕なんてどこにもなかったのだ。
ところが、大どんでん返しをしてのけた人物が現れた。
今の恋人である。
私の誕生日にあろうことか彼はプレゼントを用意していなかったのだ。
ばつの悪い顔をする彼に私は一つ、プレゼントのリクエストをした。
考えた末、リクエストしたのは3000円の品。
それは普段の生活を優先して何度も後回しにしていた憧れの品で、後日無事に彼の手から私に贈られた。
この日から私のプレゼントに対する冷めた思いは少しずつ毛色を変えることになる。
受け取ってからというもの、彼と彼との時間を思い出す頻度が明らかに増えていったのだ。
貰ったプレゼントを目にした時、手にした時、贈り主の顔が浮かぶ。
私の口角が重さを捨ててふわっと上を向く。
胸の奥にじんわり滲むように広がったあたたかみに癒されていく。
これを3000円で買えただろうか。
リクエストした品は人気こそあれど、お金を支払えば誰でも手に入れることができるものだ。
同じ品を3000円出して自分で購入したとして、愛情と感謝の念に満たされる心地の良さ、桃を剥かせて欲しいと願うような類の強い情熱は手に入れられただろうか。
プレゼントを交換するのは、決してお金の移動なんて低レベルな話ではなかったのだ。
感謝、愛情、友好の証、私を思い出してね、そういうお金で買えない実体のない何かを実体のある品物に背負わせることで、目に見える形にして相手に贈ることができる高尚な行為だったのだ。
そうして贈られたプレゼントは、贈り主を思い出させるきっかけの装置となるし、離れていても贈り主と私を媒介する物になるし、きっと宝物になる。
プレゼントを貰ったことで彼を思う時間が増えた結果、自分を生かすので精いっぱいだった日々は優しく穏やかな時間に侵食されてまろやかになっていく。
物価高騰の波にさらわれた光を彼がちょっとずつ私の目に呼び戻してくれる。
彼からのプレゼントが私の手の中にあるなら無敵時代が再び幕を開ける、そういう予感がする。
過去の無敵時代の私には「どうかそのままでいて」とお願いしたいし、誕プレ交換とかお金の交換してるだけじゃんwと単芝生やすくそがき時代の私には「斜に構えるな。友達減らしやがって」と一言言ってやりたいくらいに、考えが変わった。
どうでしょうか。
プレゼントの本質はお金や下心とかではなくて、お金では買えない「貰った人の心を癒す」見えない物の方だったと私は思うのです。
今、プレゼントに抱くあなたのイメージはどんなものですか?
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