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日本の経済発展

今回は、日本の経済発展の独特の仕方について紹介したいと思います。
明治時代からの日本の発展は正直にいって神がかっていると思います。文化もヨーロッパの歴史的な工業化の流布が無い環境下で、西洋と肩を並べるくらいまで実力をつけることができたのは、政府と民間の絶え間ない努力があったからだと思います。

封建制からの近代化

1868年、明示維新が始まった年で、当時は少数の独裁的な政治化と公家、ならびに武士からなる集団が日本の支配権を握るようになります。

それ以前の日本は江戸幕府による鎖国状態にあり、硬直性が伴った社会でした。士農工商というカーストがあり、流動性が伴わず、国の経済全体は、小作農による米の生産を基盤に置いていました。この流動性がないわりには、このころの日本は高度に都市化されており、それが将来的に商人集団と企業家集団が自立する基盤となります。

三井や住友に代表する一部の商家が、銀行業と租税徴収といった金融サービスを実施することで、政治家と親密な関係を構築するようになり、外国貿易における特権を与えられようなります。これが製造業に対する将来の投資の源泉になりました。

明示維新で誕生した政府の目的は、独立国家として日本の立場を堅持するための経済の近代化でした。それを達成するために、政府は積極的な介入主義的な公共政策を実施します。

この目標を達成するために、政府は今までの伝統を捨てるようなキャッチアップ戦略を実施します。それは、インフラの近代化、最新技術の習得と普及、国家の直接介入に基づく産業政策の展開、さらには新金融財政政策といったものでした。
制度面での近代化は、西洋モデルの模倣によって実施されました。
海軍と通信・郵便制度はイギリスをモデルとして作られ、司法制度と初等教育改革はフランスの制度を参考にしました。陸軍はドイツのモデルを、銀行制度はアメリカのモデルをそのまま「輸入」しました。

そして、政府は1870年から80年の間、国有企業を設立し、それを通じて鉱業、造船業、土木工業、繊維工業、セメント工業、ガラス工業といった第一次産業革命期を代表する産業に関する海外の知識と技術を最優先で獲得しました。
国有企業は、新しい技術と知識を輸入することができましたが、これが事業として成功したとはいえませんでした。かなり能率の悪い管理のもとで経営されていました。このころの日本は企業家精神の大きく欠落していたため、この国有企業の目的は、事業化よりも最新技術の漸進的な普及でした。
結果として、民間にも技術は伝播するようになり、製造業、製造業、繊維業、機械工業が大きく成長し、19世紀最後の20年間は、GDPの年々4.3%の拡大が見られ、大きな経済成長がみられました。

財閥の誕生

日本の経済成長をもたらした要因は、中央集権的に進められた近代政策を基盤に置くものでした。
しかし、民間の企業家精神も大きな貢献をしています。
民間部門に大きな成長が見られるようになると、政府は経済にあまり関与をしなくなりました。また、1880年代までに産業近代化への直接介入をやめることを決意し、「実験工場」を手ごろな価格で販売することを決定します。この方法は、日本の実業家に家業多角化の機会を与えました、

この過程で生まれたものが財閥です。三井、三菱、住友、安田(のちの日産)は、徐々に強大なものになり、第2次世界大戦直前には、日本の製造業の生産高の3分の2を、総資本の1割以上を所有していました。

財閥は、アメリカのM型組織をもつ企業とも、ヨーロッパのH型組織がもつ企業とも違っていました。前者ほど中央集権的ではなく、後者よりは中央集権度は高いものでした。独自の所有構造と組織構造は、財閥に一連の多様な事業を展開する能力を与え、一部の事業で技術を共有し、全ての事業には共有の資金源をもっていました。財閥は効率的で、その戦略は日本の産業経済に適していたのです。

両大戦期の財閥は、持株会社に基づく「複数子会社型」という特徴をもっていました。1930年代には、4大財閥は、日本トップクラスの子会社を10個以上抱えていました。また、各財閥と「ハウスバンク」は債権者と株主という二つの役割を果たしていました。ハウスバンクは、財閥構成企業の経営資源を割り振るといったことも行っていました。組織面の管理においては、財閥は分権的な管理を行うことができるよう、事業拡大をする際には、新たに子会社を設立するといった方法をとっていました。

財閥は以上の方法をとって垂直統合と多角化を、共有の技術の有無にかかわず、行うことができたのです。

企業コミュニティ

財閥は、日本の経済成長にとって極めて重要な存在ではありましたが、財閥に属さない企業家のイニシアティブにも注目する価値があります。
中小企業は、全国に点々を存在し、多くの場合、彼らは、機械工業と軽工業といった熟練指向型の産業に特化していました。第2次世界大戦以前の日本では100人未満の起業が95%を占めていました。この結果、日本の生産体制は、大企業の周囲にとりまく小規模企業という形で特徴づけられるようになります。これらの中小企業は、財閥と下請会社という長い連鎖がありました。こうした企業の連帯が、日本経済を活気づけました。

君臨すれど支配せず

多角的した日本の財閥は次第に複雑さを増し、分散化する事業をを管理するのに適した組織構造をもつ必要があったことから、階層的組織構造をもつようになりました。また、財閥における所有と分離は、番頭を通じて成し遂げられていました。番頭は、一種のゼネラルマネージャーで、財閥家系と何年もの及ぶ雇用関係と固い忠誠心で結ばれていました。後に、財閥家系は経営に関わらなくなり、この番頭が管理するようになります。
彼らは企業家精神を叩きこまれ、ビジネスを通じて日本の成功を追求するように駆り立てれました。財閥は、専門経営者を育てることで、ハイテクで資本集約的な産業に参入することが可能になりました。
また財閥は、いわゆる産業プロレタリアートと呼ばれる、地方出身の労働者集団に対して、福利厚生や保険制度を充実させることで、雇用安定度を測り、労働者のやる気を引き出し、忠誠心を会社に向けさせるようにしました。


いかがだったでしょうか。日本の経済成長に流れが理解できたと思います。
日本の経済成長において、国家が果たした役割は極めて重要なものでした。それは、産業の近代化に対し、国有企業を介して行われました。一方財閥の組織構造は、独特のもので、大規模かつ多角的な集団と、専門経営者と呼ばれる技術的支配集団によって特徴づけられます。この専門経営者が日本の経済成長において重要な役割を果たしていました。また、日本の企業家コミュニティを構成していたのは、武士階級、商人、公家、小作農と、極めて多彩な集団でした。この企業家が誕生する様々な母体の存在は、日本が拡大の機会を提供しました。この土台が日本の発展を堅牢なものにしたのです。


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