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『サンショウウオの四十九日』読了

  ずっと読みたかった朝比奈秋さんの芥川賞受賞作『サンショウウオの四十九日』を昨日、読んだ。

  市川沙央さんの『ハンチバック』を読んだ当時は、障碍を抱える当事者である作者だからこそ表現し得る実感のようなものが随所に詰め込まれているのを感じたけれど、この作品も、まるで当事者が書ききったかのような身体感覚やリアリティの感じ取れる作品だった。
 それは、やはり医療に携わる朝比奈さんが書かれたからこそ成し得たことなのではないかと思う。

 今回は、この作品の概要と感想を綴っていきたい。

 なお、ここから先、作中に関するネタバレが随所にみられるので、未読の方などは閲覧に際してはご注意あれ。




 結合性双生児の杏と瞬。瞬は5歳になるまでその存在を周囲に認知されなかった。他ならぬ片割れの杏にさえも。
 物語はこの二人の目線が交互に入れ替わりながら進行していく。

 完全なる余談だが、こういう風に視点がこまめに入れ替わる小説に馴染みのある人と無い人で、この作品を読んだ時の印象は変わるように思う。
(自分は、商業小説以外にも市井の人がネット上に載せている視点がこまめに変わる小説などもよく読むのでそこまで気にならずに読めたタイプ)。

 この作品の始まりの文章がまた良いのだ。仕事に出て行く母を見送る何気ないワンシーンなのだけれど、情景がぱっと目に浮かぶような鮮やかな描き方をしている。

 コタツにはいったまま見送るわけにもいかず、ポールハンガーからコートを取って羽織る。リビングを一歩踏みだすと、廊下はつまさきの骨が割れそうなほど冷たい。玄関では五分で薄化粧をした母が、かかとの潰れたスニーカーに足を通している。屈んだ母の丸い背中の向こうに、入ってくる時に気づかなかった丈の低いパンジーが塀に沿って紫色に群生しているのが見えた。

朝比奈秋『サンショウウオの四十九日』より

 個人的な感覚で恐縮だけれど、素敵だなと感じられる小説は得てして、些細な日常の動作の描写なども研ぎ澄まされたように美しくて、まるで新雪の降り積もる街中のように感じられる。或いは、風光明媚で海も山も青空さえも鮮やかな土地のように。
 朝井リョウさんの『少女は卒業しない』の第一文などもすごく好きなのだけれど、そうした鮮やかな一瞬の切り取り方に、書き手のセンスが表れるように思う。

 伸ばした小指のつめはきっと、春のさきっぽにもうすぐ届く。つめたいガラス窓のむこうでは風が強く吹いていて、葉が揺れるのを見ているだけでからだが寒くなる。

朝井リョウ『少女は卒業しない』より

 杏と瞬の視点は読み始めの頃は、まるで「普通」の姉妹のようにも見えるように書かれている(但し自分は「普通」という言い方があまり好きではない。もし作中の表現を借りるなら”単生児”の姉妹、という言い方が近いかもしれない)。
 ただ、時折そこに違和が混じる。杏なのに瞬の意識を感じ取っていたり、その逆も然り、という様子なのだ。
 みな、芥川賞受賞作品ということでこの二人の設定も把握した上で読む人が多いのでこの辺りはあまり気にせず素通りしてしまうのかもしれないけれど、何もこの作品について前情報が無い状態で読めば、普通の姉妹のようでいて、実はそうではない……? と、少しずつ開示されていく謎に、二人の事情が徐々に気になっていくのではないだろうか。

 二人の(特に杏の)意識は時折千々に飛ぶのだけれど、作中冒頭でも、伯父と父との関係性に話が及ぶ。父は赤子である伯父の身体の中から生まれた、胎児内胎児だったのだという。そんな症例があるのかとあまりに奇想天外な話に思わず目を瞬いた。
 初めて聞く話だけれど、医師である朝比奈さんが書いたのだから実在するのだろうとすぐさま思った(なお、今検索してみたらやはり実例として存在するらしい。但し、軽くみた感じでは、胎児内胎児が通常の赤子のように正常に発育していくことは恐らく無いような印象を受ける)。
 父の若彦は伯父の勝彦の胎内ですくすくと育った。若彦を胎内に宿した勝彦はミルクもよく飲むのだが、徐々にげっそりと痩せていき、育児放棄も疑われそうなほどであったが、その実態は若彦に栄養を分けていたからだったのだ。
 更に勝彦の身体の中にはもう一人、子どもになれなかったきょうだいが存在していた。赤子、それも男児なのだが、その時点で既に胎内に子を、しかも複数宿していたというのは作品上のこととはいえ、何とも神秘的な話である。

 そんなこんなで勝彦はきょうだいに栄養を渡した結果なのか、出生後も痩せこけ、病気がちなままだった。対する若彦は、生まれてすぐの食道と胃が繋がっていなかった状態を治療して以降は、病一つせずぴんしゃんしていた。何とも対照的な兄弟である。
 大人になった今は互いに岡山と神奈川と離れて暮らしていたが、それでも二人の間には身体を共有しあった者同士の、どこか特別な親密さが常に介在していた。
 普段は無口な伯父も、父と話す時だけは饒舌になる。誰より病弱なのに、常に父のことを気にかけていた。
 かたや父も、伯父の前では仕事や日常の愚痴がぽろぽろと自然と零れていく。
 そしてそんな父に伯父は優しく言葉を返すのだ。
 そういう二人の関係性を、杏と瞬はわずかではあるが知っていた。
 

 そんな不思議な縁のある父と伯父をもつ杏と瞬も、これまた奇妙な縁で結ばれた姉妹だった。
 作中勝彦と若彦と対比するように、杏と瞬との関係が丁寧に描かれていた。
 傍目に見れば、少し容貌が整っていない一人の女性にも見える。左右非対称の顔と、腕の長さや足の爪、肩の形が左右で異なるなどの軽微な違いぐらいでは、なかなか二人の人間であるということが気づかれにくい。
 ただ、杏と瞬と対面した相手は大体において違和感を覚えるもののようで、理解の至らない人は二人を障碍者であると受け止める。だから彼女たちは、マスクと眼鏡をかけ、前髪をおろして街をゆくのだ。

 社会人になった彼女は、職場では濱岸瞬の名で就職したため、杏は存在しないことになっている。
 彼女たちが人と知り合う時、幼い頃はその存在をからかわれ、意地悪などもされたが、成長を経て、どちらかをいない者として人と接する術を覚えた。
 「他人にとって理解しやすい」形を選ぶ生き方は、その分自分たちを犠牲にするものだ。それでも、事情を説明したところで理解を得ることはどう考えても難しいし、理解をされても二人を完全に別個の人間として扱ってもらえることも無い。
 高校時代のアルバイトでも、二人に理解のある友人の親元でバリバリ働いたのに、たった一人分のバイト代しか貰えなかったというのがその証左だ。

 二つの顔が融合するようにくっついていること以外は、外見上は一人の人間のように見える二人。子宮などの臓器は二人が一つの身体で生きられるように色々と「単生児」と異なる発達を遂げていたが、それでも膣は共有のもので、子宮も子を孕むことはできない。
 意識も共有している二人だけれど、同じ価値観を抱いている訳ではなく、当然好みの相手なども異なる。そうなると、どちらかが思いを通そうとすればどちらかの思いを殺すことになり、性交を行えば一方には合意のことでも、片割れにとっては不同意性交に他ならない。よって、恋愛も性交も結婚もこのままでは永遠にできない。
 二人は緩やかな絶望の中でひっそりと生きている。
 他者との繋がりが希薄にならざるを得ない生育歴を経ていたからこそ、姉妹の繋がりはその分深いものであるように思えた。

 やりたい夢も希望もあったのに、あらゆることを諦め、今はパン工場で淡々と働いている。やった分だけ儲かるし、二人の特技を活かせるネイルチップ販売だけは、細々と続けていた。

 そんな中で、杏と瞬の二人のように特別な関係性を結んでいた父の片割れの訃報が舞い込んでくる。
 それを知るや否や、杏はパニックになり、思考を千々に乱す。 
 瞬の思考を埋め尽くすほどの情報の渦が、彼女の衝撃と混乱をありのままに伝えていた。
 杏は自身たちの境遇についての理解を求めるために、過去に科学論文や哲学書、宗教書などを読み漁っていた時期があり、瞬は彼女に付き合わされてそうした書物を読ませられてきた。

 こういう描写一つひとつをとっても、二人が身体を共有しているだけの別々の存在なのだということが伝わってくる。

 勝彦の死に動揺する杏と相反するように、彼の片割れの若彦は春風駘蕩というか、やけにのんびりしている。仕事もあってやむを得なかったとはいえ、葬儀の場にも火葬寸前になって現れるような有様だった。
 勝彦と若彦の生まれてから死ぬまでの在り様を見ていると、生と死のコントラストのようなものが感じられるように思う。
 白と黒の陰陽図が「陰陽魚」という別名をもつことから転じて、杏はそれを白と黒のサンショウウオに見立てて捉えているが、勝彦と若彦の生と死の対比も、黒と白の陰陽図のようにくっきりと分かたれている気がした。

 骨の箸渡しの段になり、杏は自分たちのように深いところで繋がっているはずの父の若彦が伯父とともに亡くならなかったことに衝撃を受けて思考が千々に乱れたことをはっきりと自覚していた。

 片割れが亡くなったら、その対となる存在はその後も生きてゆけるのか。
 その疑問は、特別な姉妹である二人(とりわけ瞬)の中にも当然ながら湧いて出た。
 若彦の番である勝彦という「サンショウウオ」の四十九日までが描かれる中で、その疑問は大きく彼女たちに降りかかる。




 『私の盲端』でも、オストメイトの主人公の人生をリアリティたっぷりに描いていた朝比奈さんの作品なので、新刊が出ると告知が出た時からずっと楽しみにしていた。
 結合性双生児を描くと知り、きっと読み応えのある作品を綴ってくださるのだろうと心底期待していた。やはり予感は過たなかった。

 作中に、とある書物の引用という風に「意識はすべての臓器から独立している」という言葉が取り上げられる。
 「単生児」である自分からすると、単純に意識は脳から生まれるもののようについ感じてしまうけれど、確かにこの二人のような症例を踏まえて考えると、意識とはどこから生じるものなのか、という疑義が生まれる。
 杏と瞬も、殆ど一人の身体のような見た目に結合しているけれども、それぞれ別個の人格と意識があるのだ。
 ただ、この小説ではそんな二人の視点が絶えずこまごまと入れ替わっていく中で、時折、これはどちらのまなざしなのか分からなくなりそうになることがある。これは朝比奈さんが意図して行ったことだろう。
 輪郭がとけて曖昧になっていくような、二人が一人になっていくような、不思議な感覚だった。
 二人で一つのこの姉妹を見守っている内に、自他の境界線はどこにあるのか、何をもって主体と客体は区別されるのか、と思いを馳せずにはいられなくなるだろう。
 作中でも描かれていた例が象徴的だが、「単生児」だって、他者の言動で一喜一憂して体調を崩したり、耳を赤らめたりするのだ。
 心身相関という言葉があるように、我々の心というものは存外脆く柔くできていて、容易に周囲からの影響を受け、それは身体の隅々にまで及ぶ。
 人は人と関わらずには生きられないともよく言うが、我々の身体も、決して自分一人の力で動かしている訳ではないのだ。
 少し特別な主人公たちの人生を追いかけることによって、読み手のこちらはそういう風に、当たり前の日常の中で無意識に流していたことを自覚させられる。

 生きていくのは本当にしんどくてややこしいなと日頃から思う。
 でも、この小説のように深くまで没頭して楽しめる小説に出会えた時には、とても現金なことだが、「生きてきて良かった」と思えてしまう。
 読書を通じて自分の人生では知ることができないような別の生き方に触れ、他者の価値観や苦悩に触れ、うまく生きられない自分自身の人生を矮小化することができたり、そういう自身の生き方を少し肯定してもらえたように感じられたりする。
 生きるのが下手な自分がこれまで生きてこられたのは紛れもなくこういう素敵な本のお蔭だ。こんな本に出合うためにこれからも細々と生きていけたらいいなと思っている。


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