暁の手記 その35

きっと、この記事を、この『暁の手記』を読んでくださっている読者様は、きっと常日頃、こんなものと戦っているのかもしれません。
「希死念慮」。その4文字は人生の希望すら奪われてしまいそうなほど、一度現れると心に深く刻まれて何度も現れるものです。
2021年に双極性障害、発達障害と診断され、私の人生は大きく変わっていきました。なんとか高校を卒業したものの、行った先の専門学校で初期コロナに感染し、後遺症を発症。それに付随するように自律神経失調症(仮)も、私の体と心を蝕んでいきました。
2022年5月に自傷行為であるリストカットが開始。あっという間に傷は増えていき、もはや、ぱっと見ですら健常者を名乗れなくなってしまいました。
深く切って縫う羽目になる度、母と姉にため息を吐かれ、整形外科の先生にすら呆れられたことですが、頻度は減ってこそ、今もなお完全に辞めることは出来ていません。辛いと布団に籠りながら音楽を聴いて誤魔化していたあの頃。そういう時に決まって希死念慮が出てくるのでした。
死にたいと思いながらも怖いことはなかなか出来ず、出来たことと言えば躁状態に近かった時にしたベランダからの飛び降りと線路への飛び込みでした。ですが、どれも失敗、あろうことかほぼ無傷で終わってしまったのです。特に線路の飛び込みは何故か電車が通り過ぎるのを待ってから行った為、駅員さんにすぐ救助され、事なきを得ました。ですが、あの時の少し冷たかった家族の反応を今でも思い出すことが出来ます。
姉が線路に飛び降りた時はあんなに心配されていたのに、私は冷ややかな目線を浴びるだけで終わりました。その時の惨めさと言ったら。
思えば、私が専門学校に馴染めず、不登校になりかけた時も部屋に私の存在がいるのが嫌だと言う姉の暴動を受け、夏は暑く、冬は寒い場所に隔離されたのはでした。ごめんねすらなく、まるで私が我慢することが当たり前のようにされ、とても辛かった。あれから多少環境は整えられたとはいえ、今もその部屋で暮らしています。
そして、倒れることが増え、満足に現場に行けなくなると付き添いの姉は回毎に態度が変わりました。あなたが大事で心配なのよ、という顔、なんでいつも通り見られないんだ、という顔、イライラしている顔、悲しむ顔。そして姉がメンタルを崩す度、両親は姉は悪くないよと言うのです。
「じゃあ、悪い奴は誰だ?」
そうなった時、浮かび上がるのはいつも自分でした。私さえ倒れなければ姉は公演を楽しんで終えられた。私が倒れなければ姉はご機嫌でいられた。
私さえ、いなかったら… 事あるごとに心配はするけれど、どこか姉ファーストに思えてしまうのは、私の卑屈な心が原因なのかもしれませんが。
私が家族に大切にして欲しかった時、私は大切にはされなかった。どこか適当に思えてしまうのは姉の時とはあまりにも話が違いすぎたからかもしれません。
姉が迎えに来てと言えば親は動き、私が迎えに来てと言えば親は自力で帰ってこいと言い、姉が都度「私のこと好き?」と言えば好きと返し、私は聞くことすら出来なかった。その資格がないと思った。
抱えた夢はいつしかゴミになり、捨てきることすら出来ないまま、就職すらまともに出来ない。そうすると自然と希死念慮が浮かんでくるのです。
本当は誰かを励ませるような記事を書きたかったのですが、今は少し難しいようです。


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