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『博士と狂人』名優ふたりの新たな代表作の誕生

メル・ギブソンとショーン・ペン。
長年活躍してきた映画スターであり、名優のふたりが共演する時が来るなんて、誰が想像しただろうか。しかもふたりとも、暑苦しいくらいのパワフルな演技が強みであり、常軌を逸した役柄ばかりを演じてきた個性派でもある。同じ画面にふたりが顔を並べるだけで相当な圧力だろうと期待しながら、ついに映画館で鑑賞の時を迎えた。


作品紹介


本作は、メル・ギブソンが長年映画化を望んできた企画だと聞く。映画会社との衝突などもあり、なんとか完成に漕ぎつけた意欲作だ。
19世紀の英国を舞台に、かの有名なオックスフォード英語大辞典を初めて作る際に関わった、ふたりの人物の出会いと友情を描く。
ひとりは独学で言語学者となった、ジェームズ・マレー(メル・ギブソン)。もうひとりは、アメリカ人の元軍医で殺人犯となった男、ウィリアム・チェスター・マイナー(ショーン・ペン)。
言語の成り立ちから、現在に至るまでの変遷を調べ上げるという途方もない仕事は困難を極めるが、ふたりが出会うことにより事態は思わぬ方向へと進んでいく。



言葉の海への果てしなき航海


本作のユニークな点は、辞書作りという知的スペクタクルにある。辞書に載せるためには、無数にある単語ひとつひとつを、時代を遡って成り立ちを調べたり、その単語が生まれてから現在に至るまでの使用事例を文学作品などから探し当てなければならない。先の見えない膨大な作業であり、長い年月がかかることが目に見えている。
それでも取り組むのは、言語に対する飽くなき探究心によるものである。特に西洋において言語とはコミュニケーションツールでもあるが、神が創造した世界の事物に意味を与えるものであり、信仰を広めるために欠かせないものだ。西洋の言語学者たちは、言葉は神に近づくための手段のひとつと考えていたのだろう。
言葉の海の中を彷徨うマレー博士らの苦労は、劇中では “Approve” という単語の引用が2世紀分見当たらずに困惑する場面に凝縮されている。反対にマレー博士とマイナーが出会って、まるで"しりとり"のように難しい英単語を互いに一つずつ言い合う場面での、ふたりのいたずらっ子っぽい笑みには、言葉に誠実な者しか得られない喜びが表現された名場面だ。

言葉は、時代と共に変化していくもの。既存の単語の使用法が変わったり、新しい単語が生まれたりする。そのため辞書も、決して完成することはない。それでも彼らは、今なお版を重ねている英語辞典の基礎を作り上げた。初版本を手にしたときは、自らの偉業を誇りに思ったはずだ。

この映画を観ると、もっと言葉を大事にしなければという思いが湧き起こる。特に言葉が容易に消費されるデジタル情報化社会において、言葉に誠実であることは前より難しくなってしまった。すでに我々は見聞きできるものほとんど全てに対して、言葉によって意味づけや名称を与えることが可能になっている。だからこそ、今一度言葉と誠実に向き合うことで、世界の見方が大きく変わるはずなのだ。
言語とは、なんてロマンチックなのだろう。


名優ふたりの私生活が重なる赦しと償いのテーマ

なぜ本作にメル・ギブソンが惹かれたのか。もちろん映画監督という肩書きも持つギブソンだから、辞書の編纂という知的好奇心をくすぐるテーマに惹きつけられたのかもしれない。あるいは、特にマイナーを中心に描かれる赦しというところに、宗教的な自身の思想を重ねたのではないかとも思えてならない。
ギブソン自身、熱心なキリスト教信者として知られている。その思いの集大成が、イエス・キリストの磔を究極のリアリズムで描いた問題作『パッション』なのだが、アカデミー賞受賞作『ブレイブハート』や最近の『ハクソーリッジ』においても、宗教や信仰というテーマがビジュアル的にも精神的にも強く表れている。
そんな彼は、アルコールや差別的な暴言、暴力などの問題を起こして、ハリウッドスターの座からの転落を経験している。また2011年には、それまで30年以上結婚生活を共にしたロビンとの離婚があった。大荒れの私生活の中で、立ち直るために赦しを求めていたのではないかというのは完全な推測である。

ショーン・ペンも、おしどり夫婦で有名だったロビン・ライトと14年の結婚生活の後に離婚、過去には飲酒運転や暴行事件などを起こした問題児としての側面がある。かつここ数年は表舞台に出ることが大幅に少なくなり、出演作も激減した。

付け加えると、ギブソンは前述の『ブレイブハート』や『アポカリプト』、ペンは『インディアン・ランナー』や『イントゥ・ザ・ワイルド』に代表されるように、映画監督としても優秀で受賞経験がある。

ということで、今までこのふたりを並べる機会はなかったが、あらためて考えるとここまでの似た者同士はなかなか珍しい。


辞書の編纂という大仕事を受けて家庭が疎かになってしまったマレーが妻に求める赦し。誤って殺害してしまった男の妻に求めるマイナーの赦し。それらはそっくりそのまま、ギブソンとペンの過去に犯した罪や、前妻(偶然にもどちらもロビン)に対して求める赦しに重なってくる。過去を償うために、このふたりが本作で共演を果たしたことはまるで必然のようだ。これこそが、本作のプロジェクトに対しメル・ギブソンが熱を入れた理由なのではないかと、勘ぐってしまうのである。


ふたりとも暑苦しいくらいのパワフルな演技が特徴的だが、本作において狂人の立場にあるショーン・ペンの"動"に対して、メル・ギブソンはいつもの熱さを内に秘めて"静"に徹していたのが印象的だった。ペンは現代最高の名優であることを再認識させる名演だったが、ギブソンにとって本作は俳優として新たな境地に達したことを証明する、キャリアの中でも重要な作品であることは間違いない。お互いの姿を鏡写しのように見ながら、高め合ったのだろう。


ヒューマントラストシネマ有楽町にて鑑賞

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