仕事と、それに対する私の距離感

 

"仕事"ということについて振りかえって思いを馳せるときにいつもゾッとさせられるのは、それが私の人生においていかに軽い扱いになっているか、ということだ。

「軽い扱い」といっても、私が意識的に「仕事なんてくだらないことを自分はするべきではない。なにか他の方法で一発当てるなり金持ちの女の人のヒモになるなり生活保護に頼るなりして、仕事をやらずに生きていくべきだ」と考えているわけではない。(…正直に言うと学生時代にはそういうことを考えていた時期もあったが、大半の不真面目な学生には一度はこういうことを考える時期があるものだろう。)

 ここでいう「軽い扱い」とは、私の記憶における比重についての話だ。どこかの会社にてフルタイムで働くということは、その間は、人生の大半の時間がそこの仕事で占められるということである。基本的には週に五日間は会社に行くことになるわけだし、出勤の準備や退勤後の疲弊などを考えると仕事以外のことで平日にできることは限られている。私は資格取得やスキルアップなどのための勉強は行なっていなかったので休日には友人や当時の恋人と遊んだり仕事とは関係のない読書や執筆を行うなどの「自分の時間」を過ごせてはいたが、休日の数なんて平日に比べると限られたものだ。会社で働いていた時には、仕事を中心に人生がまわっていたはずである。

 …それなのに、ある職場を辞めてから一ヶ月も経つと、もうその職場の記憶があやふやなものになってくるのだ。仕事の手順やノウハウを忘れるはもちろんのこと、同僚たちや上司の名前すら不鮮明になる。いつもどんなことを考えながら仕事をしていたか、どんな気持ちで仕事をしていたかということも、印象に残る出来事があった日のことを除けば思い出せなくなってしまうのである。どんな仕事をしているときにも漠然と「いやだなあ」「つかれるなあ」「お腹空いたなあ」「はやく辞めたいなあ」と思いながら仕事をしていたことは記憶しているが、それだって実感をもって記憶しているのではなく、"「〜だなあ」と思いながら仕事していたなあ"という情報として記憶されている感じである。また、休憩時間や飲み会などにおける同僚との会話や交流なども、それをしていたという思い出はあるのだが、その内容やそれに対して私がどう感じていたかという気持ちなどはイマイチ思い出せない。

 そして、この感覚は「記憶に蓋をされている」とは違うものである。たしかにどんな仕事をしているときにも常に何らかのネガティヴな思いを抱きながら働いていたことは確かであるが、トラウマになるようなレベルの嫌なことがあったり鬱病になったりしていたわけではない(そもそも仕事の内容は客観的には全くキツくなかったし、労働環境はかなり恵まれている方であった)。ただ単純に、仕事にまつわる全ての経験の記憶が「薄くなっている」のだ。その理由は、おそらく、私の脳なり無意識なりが仕事や労働のことを「どうでもいいもの」と位置付けしているからであろう。ある人の主観的な人生はその人の記憶や思い出を通じてしか認識されないとすれば、私という人間の人生において仕事や労働というものは重きを占めるべきではない、と私の脳なり無意識なりが気を利かしてライフストーリーを調整してくれているのだ。

 繰り返すが、私は意識的には仕事というものをどうでもいいとは思っていない。30歳前後の社会人が持つべき一般常識として「人は社会や周囲の人間に対して責任を持てる存在になるために仕事をするべきだ。また、仕事をすることでライフプランを練ったり自己実現をできたりするようになることで、仕事は本人にとっての幸福にもつながる」というくらいの理解や認識は持っている。個人としても、労働に関する哲学や経済学の本を読んだりしながら、自分なりに「仕事や労働とどう向き合うべきか」ということは真剣に考えてきたつもりだ。

 しかし、私の意識ではなんともならない、アイデンティティの格となる部分になるなにかが「仕事なんてどうでもいいことについては考えずにもっと他のことに重きを置こうぜ」と囁きかけてくる、ような気がする。…あるいは、ただ単に私がこれまで経験してきた仕事というものが本当に記憶に残りようがないレベルで内容の薄いものであったという可能性もある。だが、考えてみるとその可能性は低そうだ。思い返してみると、仕事の中には単調な部分や退屈な部分が多くあったことも否めないが、新しい技術を覚えたり新しい業務フローやマニュアルを構築したりこれまでにないものをゼロから作る作業に関わったりしたことなど、あるいは仕事を通じて外部の人に触れたり未知の領域を体験したときなどには、たしかに達成感や充実感や創造性や新鮮さにまつわるポジティブで鮮明な感覚を抱いていたはずであったのだ。内容は薄くないはずである。だが、それでも、記憶は薄い。


 では、私のライフストーリーにおいて仕事をしている時期についての比重が軽い代わりにどの時期の比重が重いかというと、不愉快なことに、これはやっぱり大学生時代であると言わざるを得ない。なぜ不愉快かというと「"学生時代がいちばん充実してた"という大人にだけはなりたくないなあ」と学生時代から思っていたからである。

 だが、記憶における比重が重いからといって、学生時代が楽しいことばかりだったというわけではない。というか、つらいことの方が多かった。アルバイトなどをして学費を捻出していたわけでもないし、学業に苦しめられていたわけでもないが、いろんな些細なことに傷付いたり怒ったり裏切られた思いになったりしていたのである。(ついでに言うと、私の方がいろんな人を傷付けたり怒らせたり裏切ったりしてきた自覚もある。だが、記憶というものはそういう自分にとって都合の悪いことは蓋をするようにできているものなので、意識的に蓋を開けようとしない限りは思い出さずに済んでしまうものだ)。とはいえ、楽しい思い出もやっぱり存在する。そして、ネガティブな記憶とポジティブな記憶の両方において、仕事をしている時期よりも大学時代の方がずっと鮮明なのだ。

 大学生時代の記憶が鮮明であることには、当時の自分が若かったからであり、ポジティブなものにせよネガティブなものにせよあらゆる経験がそれまでになく新鮮に感じられたいうことはあるだろう。だが、より若い小学生時代や中高生時代よりも大学生時代の記憶の方が鮮明であることを考えると、単に若さだけは説明できないところもありそうだ。

 思うに、私にとっての大学と仕事との違いは、そこがコミットできる対象であったかどうかだ。学生時代には、学部やサークルや大学院という領域にコミットすることができた。そこでやっていたこと(文芸サークルで小説を書くことなり、学部で様々な分野の授業を受けながら各分野に関係する本を読むことなり、授業をサボって友人と学内で遊んだり飲んだりすることなり、大学院で洋書などを読みながら本格的な勉強をすることなり、などなど)は自分がやりたくてやっていたことであったのと同時に、「やるべきこと」であるという感覚を持つこともできた。「自分は学部生や修士生としていま大学にいるのだから、これらのことを精一杯にやるべきだ」という義務感や規範意識を持ち、焦りながらもそれを実行しようとしながら生きていた感覚がある。

 また、周囲の人間たちにも私が勝手に抱いていた義務感や規範意識に基づいて、相手に対しても勝手な期待を抱くことができた。つまり、いま私と同じ領域に所属していたり距離が近い関係にいる相手ならば、私が持っているような価値観や目的意識を共有できる仲間であるはずだ/であってほしい、と他人に対して望みを抱くことができたのだ。その期待はある程度は叶えられることもあったし、また多くの場合には裏切られた(そもそも私が内心で勝手に抱いていた期待である。相手にはその期待に応える義務もないし、そもそも私が期待を抱いていること自体に気付かないことが大半だった)。期待が応えられて仲間意識や友情みたいなものが感じられたときには嬉しかったし、期待が裏切られたときにはたいそう傷付いたり怒ったりしていた。しかし、ポジティブな感情にせよネガティブな感情にせよ、それは強くて鮮明な感情だった。そのせいで他人のことに振り回されて自分のすべきことができなくなるという問題もあったりしたが、ともかく…私は大学生という時代を"本気で"生きようとしていたしそこで出会う人たちとも"本気で"向き合おうとしていたのだ。こういう生き方をしていたものだから、その時代に経験したことや起こったことが今に至るまで自分の人格やアイデンティティに影響を与えていて、その時代の記憶がいまでも鮮明に残ることも無理はない。


 そして、どうやら私は仕事や職場というものをコミットの対象と認識できたことが一度もなさそうだ。もちろん仕事であるからには(基本的には)真面目にこなすし、自分の能力や適性に応じつつ成果や実績を出そうと努力することもあるし、たまにはその努力の成果が出ることもある。しかし、実際に行なっている行為や費やしている時間とは別次元にある「気の持ち方」や「向き合い方」のレベルでは、仕事に対して大学の頃のようには「本気」になれない。自分がやりたいことではないのはもちろんのこと、「やるべきこと」であるという感覚すら抱けないのだ。生きていくためには金を稼がなければいけないので、現実的な問題としては仕事はやらざるを得ないのだが。それでも、実存的な面では、仕事に対して自分という人間の人生や人格がかかっているという気持ちが抱けない。

 職場の人間たちにも、学生の頃のように他人に対して抱いていたような期待をかけることはできない。価値観や目的意識を共有する仲間であるとは最初から考えられなくて、あくまで職場という場所でたまたま居合わせただけの「他人」であるという感じが拭えない。業務の遂行においては同じ目標に向かって協力する部分もあるし、それについてはそれに応じた仲間意識や共感などは抱けるが、その業務自体に自分の実存がかかっていないのだから、それを通じて得られる仲間意識や共感にも限界がある。距離感が縮んだり仲良くなったりしたとしてもあくまで「ほどほど」レベルなのだ。…そのおかげで相手に対して抱く負の感情のレベルにも限界はあるし、学生時代の頃のように他人のことに振り回されずには済むので、良し悪しではあるのだが。


 とはいえ、会社などに勤めている間にはたしかに人生の大半を仕事が占めるが、それでも人生の全てが仕事に占められるわけではない。退勤後や休日などに読書をしたり映画を見たりなにかの文章を書いている間は、その間だけは自分が人生においてやるべきことをやっているという感覚を得ることはできる。また、職場の人間とは真剣に向き合えないとしても、友人や(いるときには)恋人などとの人間関係を真剣に育むことはできる。私は実際にそうしてきた。

 あるいは、世の中の人の大半が仕事は「ほどほど」にしてその残りの時間に人生や実存をかけるものかもしれない。…だが、それにしては、仕事に取られる時間は多過ぎるというものである。

 きっと、私が仕事に対して抱いている中途半端な距離感や居心地の悪さには、新卒就活を経験したことがないことが影響しているだろう。また、将来の目処もなく大学院を卒業してフリーターを数年続けた後になし崩しに就職してしまったことも大きく影響しているように思える。はてなの方でやっているブログの執筆を通じて、金銭とは切り離された形で「社会貢献」が行えたりそれを通じて承認欲求が満たされてしまったりすることも、悪い形で影響を与えているとは思う。細かい要因は他にも様々に思いつくが(親の影響、友人の影響、関西という土地の影響、景気の影響、健康の影響、…などなど)、要因を解明したところで何かが解決するというものでもない。

 いまは失業中だが、貯金のことなどを考えれば、そろそろまた新しい仕事を探し始めることになるだろう。そして新しい仕事に就いたら、今のままではおそらくまた「これは自分のやりたいことじゃないなあ、自分のやるべきことじゃないなあ」と居心地の悪さを感じながら人生の大半の時間を消費してしまうことになりそうだ。これではあまりに勿体無いので、なんとかして自分の気の持ちようや向き合い方を変えるべきだとは思う。(ベーシックインカムの実現だとかの外部要因によって仕事をしなくてもいい社会になったら言うことはないのだが、あと数ヶ月や数年で日本がそのような社会になる可能性は低そうだ)。しかし、「変えるべきだとは思う」とは思いながらも、自分の人格や考え方はもうずっと変わらなさそうだという予感もする。もしかしたら自分は社会不適合な人格をしているかもしれないが、自分は自分なので、自分というものに対してなんとか付き合っていくしかないのかもしれない。


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