文系大学生に身に付けてほしい7つの能力


「学問」や「大学」に関するSNSの論調やネットの記事などでは「学問の面白さ」「勉強の楽しさ」ばかりが強調される傾向があるが、学問とは面白くないものである。すくなくとも、論文を書いたり研究をしたりすることは、大半の人にとっては面白くない。

 特に卒論を書くことは面白くない。論文というものには新規性とか学問的意義とかが必要になるから、過去の膨大な文献とか資料とかを漁った挙句にそれらでまだ論じられていないテーマや論題をひねり出してこなければならないが、論じる価値のある物事なんでもうとっくに論じ尽くされているので、まだ論じられていないテーマや論題なんてほとんどの場合にはなんの価値もないものである。しかしそのテーマや論題の"学問的意義"を示さなければ論文として認められないので、卒論であってもそれを無理矢理に強弁しなければならない。そんなことをしているうちに「この論文にはテーマや意義があるんだ」と自分すらも騙してしまえれば幸いだが、大抵の場合はそうもいかないので虚しい思いを抱えてしまう。

 大学という場所は表向きには「研究機関」とされているし、そこを卒業する人は学士卒であってもなんらかの「研究能力」を身に付けた人間であるとされてはいる。だが、すくなくとも文系の場合、「研究」の能力を身につけるかどうかは大学で得ることの本質ではない。

 わたしが大学生活を7年間過ごしたが(学部5年間+大学院2年間)、7年過ごしても「研究」の面白さは分からずじまいであったし、「研究能力」を身に付けたかどうかも自信がない。しかし、何も身に付けなかったわけでもなく、7年の経験を通じて「文系知」や「人文学的な知」のありようとはどのようなものであるかということの感覚はつかめるようになったと思う。ほんとうの意味で教養のある人間と教養のない人間との区別も付けられるようになった気もする。これから大学に進学する(文系の)学生たちにも、「研究能力」だけでなく/よりもむしろ「教養」や「文系知」を身に付けてほしいものだと思う。「研究能力」だけを身に付けたところで良い人間や面白い人間になるとも限らないしそういう人間が増えたところで社会が良くなるとも限らないが、ほんとうの意味での「教養」や「文系知」を身に付けた人たちにはなんらかの意味での人としての良さや面白さが感じられるからだ。私が友人になりたいと思えるのはそういう人たちだし、住むならそういう人たちが多い社会に住みたい。


1:情報や知識を的確に摂取して的確に吟味する批判的思考能力。具体的には「この情報の出元はいつも極端な情報ばかり出すから眉に唾をつけておこう」とか「この論拠やこの議論の展開などはいずれも論者の主張したいことにとって都合が良すぎるから、反対側の主張を唱える論者の議論にも触れておこう」などと目の前のものから冷静に距離を置くスタンス。

2:世の中に存在する考え方や価値観の多様性への理解。具体的には「どんな考え方にも、それが成立して受容されるに至るそれなりの理由があり、その考え方には何らかの需要や存在意義があるんだな」という感覚。

3:安易な相対主義に陥らず、決めるべきところでは「こっちではなくあっちの言っていることが正しい」と判断する能力。1や2ができる人ほどこの能力から遠ざかる傾向があるし、特に賢しらな若者ほど1や2の能力を身に付けられる代わりにこの3の能力を獲得できない傾向にある。しかし、ちょっと賢い人たちのみんながみんな"冷静"で"中立"で"客観的"な判断ばかりを叫んでいる昨今では、「これが正しい」と堂々と主張できる能力の方がむしろ貴重になっているのだ。

4:弱者やマイノリティ、動物などへの共感と想像力と優しさ。この能力は、本来なら文学やフィクションに触れていたら自然と身に付くべきものだ。学問とは基本的には鳥瞰的な見方を要請するものであり、そのためにある種の想像力や共感力を抑止させてしまう傾向があるが、文学やフィクションは学問とは逆に虫瞰的な見方を会得させてくれるものである。他の点でどんなに賢く優れている人間であってもこの見方がないとロクな人間になれない。

5:将来のキャリアやスキルアップ、経済的合理性を考えずに生きること。資本主義社会に生きる以上は最終的にはどんな人であってもこれらのことを考えて生きざるを得ないが、たとえば大学の最初の2年間はこれについて全く考えずに生きてみたり、大学を卒業した後にもキャリアやスキルや経済などに全く汚染されない心の余白や精神の防衛地帯みたいなものを残したりしてほしい。そうすることによって本人に得がもたらされるとは限らないし、むしろ損の方が多いだろうが、みんながみんなキャリアやスキルや経済的合理性のことを考える社会は貧しくて虚しくて生きづらくてロクなものではない。そういう合理性に対抗することこそが「文系」的な教養の本質である。

6:パフォーマンス的な知のあり方に対する距離感。世の中や身の周りを見てみると、知識や教養を「自分を賢そうに見せて他人を感心させるため」「自分の知名度や影響力をアップさせるため」あるいは「特定の方向に他人を誘導するため」に使っている人があまりにも多い。知識や教養を人心掌握や人心誘導の手段としてしか使っていないのだ。あるいは、自分の欠けた人間的魅力を補うためのアクセサリー的な感覚で知識や教養を利用しているのである。有名人であれば一部の学者や文化人がそうであるし、大体の教養系YouTuberなり学術系ブロガーなりがそうである。有名人でなくとも、ちょっと真面目なゼミなり文科系サークルなりでは上級生とか院生とかが入学したばかりの下級生や学部生たちに対して聞きかじりの知識を披露してパフォーマンスする。こういう連中が世の中をくだらないものにしているのであり、それに感心したり尊敬の念を抱いたりしてしまう連中も同罪だ。軽蔑するくらいでちょうどいい。

7:知識や教養はトリビア的なものではない、という認識。専攻する分野でも左右されるかもしれないが、学問で得られる知識というものを「〇〇年の〇〇月に誰がどこでどうこうした」という些細な事実の集合としか考えていない人は多いようだ。文学や哲学を専攻しても対象の文学者や哲学者の伝記的事実の記憶に終始してしまう場合もあるし、そうでなくても「〇〇という文学作品にはこういう解釈がある」「〇〇という哲学者はこういうことを考えていた」という通り一遍の理解を得ることで教養を得た気になってしまうことが大半だ。しかし、文系の知識や教養の本質とは、自分が得た知識や理解に対して自分がどういうスタンスや立ち位置を取ったり、他の物事や問題について考えるときに自分の持っている知識や考えてきたことをどう敷衍して応用するか、というところにあるのだ。

生活がつらいのでサポートして頂けると助かります。