文学から遠く離れて
大学時代はいっぱい小説を読んでいたし、自分でもたくさん小説を書いていた。大学2年生のときには取得単位はゼロだったのだが、それは小説を読んだり書いたりすることに時間が取られすぎて授業や試験に出るヒマがなかったからである。(授業や試験に出ていなかっただけで、大学に行っていなかったわけではない。家にずっといると親に疑われたり怒られたりするから、文芸部の部室で作業をしていることも多かった。部室の閉まる夜の9時過ぎまで作業していることも多かったし、大学で授業が行われていない休日にも通っていたので、大学に滞在している時間は大半の学生よりも多かっただろう。)
しかし、大学3年生になって真面目に授業に通うようになってからは、小説の代わりに新書や啓蒙書やいろんな学問分野の入門書や教科書を読むようになったし、自分で小説を書く時間も減っていった。いちおうは文学専攻であったので授業や卒論で扱う小説やそれに関係する作品を読み続けてもいたが、自分からすすんで手に取る本における文学の割合は減っていった。はっきり言ってしまうと「小説よりもそうじゃない本の方が面白いじゃん」と気づいてしまったのである。
文学作品の魅力といっても色々とあるだろうが、そのひとつは作品のなかで「人間」が描写されていることであり、また愛だの正しさだの友情だの青春だのなどの「大切なこと」が描写されていることである。わたしが大学で文学専攻を選択した理由のひとつも、文学を通じて「人間」や「大切なこと」が学べるかなと期待していたところにある。
だが、すくなくともわたしが触れてきた限りでは、文学研究というものは文学が描いているはずの「人間」や「大切なこと」を対象としない。文学作品そのもののテキストの読解であったり、作品を書いている作家についての諸々などが研究対象とはなるが、作品で描かれているテーマ自体は直接の研究の対象とはあまりならないのだ。そういうことを対象にすると陳腐で格好悪いというところがあるし、そもそも論文としてまとめることが難しいというところもあるのだろう。
一方で、経済学や心理学や生物学などの学問は、それぞれの切り口から「人間」とは何かということを教えてくれる。歴史学や社会学もまあそうだ。「大切なこと」に関しても、文学とは違い哲学であれば直接に論じる対象としてくれる。論文などで展開されている本格的な研究となると、哲学研究の大半は文学研究と一緒でテキストの重箱をつついたり人物についてくどくどと調べるつまらないものではある。経済学とか生物学とかもガチの論文になると読み物としては多分つまらないものであるだろう。しかし、各分野の教科書や入門書では、それらの研究成果の上澄みの知識が面白くわかりやすくまとまっている。それらについて学ぶことは楽しかったし、どんどんと蒙が啓かれていく感じがあってワクワクできた。
また、各種の学問分野が提供してくれる「人間」に関する知識には「裏付け」があるところも重要だ。学問というものは積み重ねと相互批判によって成立するものであり、その分野が健常に機能していると前提すれば、入門書や教科書に書かれていたり講師が授業で教えたりするレベルの知識が極端に間違っていたり単なる個人の思い込みであるということは(ほとんど)あり得ない。それらの知識は「客観的」で「正確」であり得るのだ。一方で、文学作品というものは「主観的」であるからこそ価値が存在するものである。それ自体はいいのだが、主観的であり作家の価値観や性格や性根や思い込みに多いに左右される人間像をあまり真に受けたり有り難がったりするのも、考えてみると馬鹿らしいことではある。
各人の主観的な価値観によって好き好きに作品が創作されるということは、そこで描かれる人間像や世界像を客観的で正確なものとしない代わりに多様なものとすることができるというメリットはある。…しかし、作り手側も受けて側も含めて、文学に関わる人たちの「多様性」にはある種の限界や制約も存在する。年齢や階層や人種やジェンダーが多様だとしても、根本的な性格や価値観や人間性に一定の傾向が生じてしまうからだ。文学や芸術を志向する人たちの大半は、繊細さや内向性や反社会性や情緒不安定性や自己中心性や利己性などのセット化した性格傾向のいずれかが多かれ少なかれ備わっている。そのため、様々な作家たちによって作られた作品群が一見すると多様で個性にあふれているように見えても、そこで前提となっている人間観や世界観にはある種の偏りができてしまうのだ。文学好きな人々のなかにも経済学や社会学などの様々な学問分野の知見にも目配りしているタイプの人もたくさんいるが、彼らにしても、元々の自分の人間観や世界観がまずあったうえで、それを壊さずにいてくれたり補強してくれたりする範囲内の知見を選択的に摂取している感じが強い。文学や芸術や創作の世界は確証バイアスの積み重ねのうえに成立しているのだ。
……と、長々と書いてみたが、近年のわたしがすっかり文学を読めなくなってしまった理由は上記とは全くの別物である。その理由とは「しんどさ」だ。エンタメ系の小説ならまだしも、ガチの文学作品はもうしんどくて読めなくなってしまっているのである。
しんどいと言っても、仕事で気力を消耗したり時間的な余裕がなくなったりしたから作品に集中できなくなった、というだけではない。大学院を修士で卒業したあとに色々とつまずいてフリーターになってからは、作品の主人公と自分との境遇の差が耐えられなくなってしまった。学生までのうちはまだ自分の可能性というものが未知数なので、主人公がどんな立場にいるどんな人であっても共感したり同調したりすることが容易であった。まだ経験していないだけで、これからの自分の人生で主人公と同じような境遇になったり同じような状況に立たされたりするかもしれない、ということを疑いなく思えていたからである。しかし、自分の現在の社会的地位が不安定になり将来の展望も見えずに年齢だけが経っていくと、自分が今後ありえる姿や経験しうる出来事の可能性が目に見えて狭まっていく。それに応じて、友人や恋愛相手などの人間関係の幅も縮こまっていく。しかし、大概の文学作品では、主人公は(繊細であったり内向的であったりする人格にも関わらず)ちゃんとした仕事や立場に就いており、人間関係を営んでいる。そういう主人公の状態に対する羨望が強くなり過ぎてストレスを受け過ぎてしまい、作品に集中するどころではなくなるのだ。もちろん文学作品のなかには貧困層であったり非正規労働者であったりする主人公の貧しさや孤独や絶望感などにテーマを設定したものも多いのだが、そういう作品は暗くて後ろ向きであるだけでなく露悪的な内容であることが多いし、読んでいてけっきょく気分が悪くなってストレスが溜まる。そして、文章を読むということは絵を見たり動画を観たりすることよりも没入や思考が必要とされて知的負荷がかかる行為であるから、ストレスを感じてしまうと読むことはできなくなってしまうものである。
映画作品や漫画作品に対しても似たような気持ちを抱かなくはない。しかし漫画作品は登場人物が絵で描かれているし、いかにもフィクションのお話の世界という感じが強いから大丈夫だ。映画に関しては、人間関係や青春や繊細な心情などを題材にした現代の邦画は、舞台も設定も俳優の見た目も自分の住んでいる世界に近過ぎてかなり精神的にキツいのでほとんど観れない。内容だけでなく、それらの作品を屈託なく楽しめる人が自分のいまいる社会に大量に存在しているという事実に対してもひどく嫌な気持ちにさせられてしまう。洋画に対しても多少は同様の気持ちがあるが、自分が住んでおらず馴染みもない海外が舞台であるし、役者たちも外国人なので「他人事」という一線を引いたうえで観られるところがよい。昭和の邦画についても同様だ。
作家を志望する人へのアドバイスとしてよくあるのが、「他人に興味を持つこと」や「他人の話をよく聞くこと」だ。自分のことだけ語るのなら日記やエッセイでよくて、他人についてもきちんと観察して関わって理解することで、作品のなかに他者性を介在させることがよい作品を作る条件の一つである。作る側だけではなく読む側としても、(心理学や社会学などが対象とするような抽象的で一般的な「人間」ではなく)「個人」や「他者」に対してなんらかの興味を抱き続けなければ、文学作品に触れ続けることはできないだろう。
フリーターになって時間だけはいっぱいある状況になった私が、学生時代の頃のように小説を読むことも書くこともできなくなった理由の最たるものが、「他人」について考えることがストレスフルになったことである。他人と自分との境遇や立場や可能性などの違いに対してあまりに過敏になってしまい、気後れや引け目を感じて嫌な気持ちを抱くようになってしまった。そういう状態では他人に対してきちんと興味を持ったり話を聞いたりすることも苦痛で難しい。もともと離れかけたところにそれが決定打となって、フリーターを卒業して会社員になった後にも相変わらず文学からは離れたままである。各種の学問分野に関する本はいまでも読んでいるし映画や漫画には触れ続けているのだし、このままずっと文学から離れたままでいても特に問題はないかもしれないが。
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